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ほんもの 白洲次郎のことなど 新潮文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 新潮社 |
発売年月日 | 2016/11/01 |
JAN | 9784101379159 |
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ほんもの
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商品レビュー
3.7
4件のお客様レビュー
小林秀雄、青山次郎などとの交流がエッセイの前半。 面白かったのは、吉田健一のこと。酷く運動神経が悪く、不器用だったこと、大食漢だったこと、お喋りだったこと。知っていることもあるけれど、違う方向から光が当てられたように感じる。 文士たちの霊媒のようなった銀座の女性への追悼。う~ん、...
小林秀雄、青山次郎などとの交流がエッセイの前半。 面白かったのは、吉田健一のこと。酷く運動神経が悪く、不器用だったこと、大食漢だったこと、お喋りだったこと。知っていることもあるけれど、違う方向から光が当てられたように感じる。 文士たちの霊媒のようなった銀座の女性への追悼。う~ん、なんというか昭和だなと思う。実際そういう女性は居たんだろうけれど、何とも言えない違和感がある。 終盤は白洲次郎のこと。なれそめや家庭でのふたりについて。武相荘は何度か足を運んでいる。白洲次郎・正子の家ならもっと大きな家を想像していたんだが、疎開をきっかけで選んだ農家はこじんまりしていた。でも、大工仕事と農作業と車が好きだった次郎さんと骨董と着物と文筆に精を出す正子さんの住まいは、何とも言えない落ち着きがある。 このエッセイに現れる次郎さんは半分英国人。奥様の正子さんから見ると弱虫で正子さんの出産や病気ではただオロオロしていたという。 意外だったのは、小林秀雄や今日出夫とも親しく吞んでいたということ。なんと正子さん抜きで。朝帰りする正子さんを農作業中の次郎さんが迎えるシーンもあるが、次郎さんは文句を云わなかったとのこと。あとがきでは娘さんには愚痴をこぼしていたそうだが。 次郎さんは小林秀雄の本はおろか正子さんの本も読まなかったそうである。同じ家で暮らしながら別々の生活を送っていたという。 武相荘には趣味趣向は違うけれど、テイストは一致していたという解説があった。物凄い割れ鍋に綴じ蓋だと思う。
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572 白洲正子 1910~1998。評論家・随筆家。日本の古典・芸能・美術・工芸などを研究。祖父は海軍大将樺山資紀、父は貴族院議員愛輔、夫は白洲次郎。著書に『かくれ里』『近江山河抄』『明恵上人』『西行』『日本のたくみ』『お能の見方』など多数。 ほんもの―白洲次郎のことなど―...
572 白洲正子 1910~1998。評論家・随筆家。日本の古典・芸能・美術・工芸などを研究。祖父は海軍大将樺山資紀、父は貴族院議員愛輔、夫は白洲次郎。著書に『かくれ里』『近江山河抄』『明恵上人』『西行』『日本のたくみ』『お能の見方』など多数。 ほんもの―白洲次郎のことなど―(新潮文庫) by 白洲正子 室町・桃山時代といえば、茶道が発達した頃で、人は完全無欠なものより、動きのある形を好むようになった。時には欠けたり、ゆがんでいたりしても、ゆとりがあって、自然であれば、何もいうことはない。何百年も陶器とつき合ったあげく、私たちの祖先は、そういう物の見かたに到達したのである。人間は不完全なもの、わり切れぬものと合点したといえるであろう。それはわび、さびの思想にも通ずるもので、「 楽」と名づける茶碗は(その全部が美しいというわけではないが)、まことに当を得た命名であると私は思っている。 今でも顔はよく知っているのに、名前を知らない人が大部分である。何しろはじめてのことなので、洲之内さんと共通の話題は小林秀雄しかなく、「僕は若い頃左翼だったけれど、小林さんの作品を読んで転向したんですよ。もっともどれ程左翼だったか、怪しいもんだが……」といった。これは初耳だったので驚いたが、そういえば「気まぐれ美術館」の中にこういう言葉があるのを思い出した。 私の転向のきっかけになったのはドストエフスキー、それとシェストフだ。とはいってもみんな忘れてしまったが、読んだときの、私の心につけられた思考の 条痕 のようなものが残っている。とにかく、私は、自分というものを、それまでのように社会・経済的必然の中で見るのでなく、全く別のレベルで見る見方を知ったのだった。そのレベルで見る精神の世界は無限に深く、広く、そして自由なのだ。そのときのうれしさは忘れられない。マルクス主義の枠が目から 除 れたときはじめて、私は、物があるがままの物として、形容詞抜きで私に見えてきたのを感じた。(昭和五十四年一月号「チンピラの思想」)
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よかったな。久々にエッセイ読む。 いろんな昭和の文化人が出てきてよかった、銀座を味わったような、実際に会う以上に実感がわくような感覚。 出てくる人の本を読んだりしてもそこに期待してるものがないかもしれなくて、こういう本って、その人の視点や慕っている気持ちそのものがすごく読ませるか...
よかったな。久々にエッセイ読む。 いろんな昭和の文化人が出てきてよかった、銀座を味わったような、実際に会う以上に実感がわくような感覚。 出てくる人の本を読んだりしてもそこに期待してるものがないかもしれなくて、こういう本って、その人の視点や慕っている気持ちそのものがすごく読ませるから、もちろんすごい人たちのすごさはあるにしても、今もこうやって白洲正子さんがピカピカの新本で本屋さんに置いてあって読まれているというのが結局すごい。 でもなんていうか敗戦とか日本とか、そのアイデンティティを守ろうとした人たちの思いっていうのがあふれてて、正子さんも見聞きした人たちからそれこそ実になるくらい食い尽くしたんだろうなと思う。 人の見方がとても良くて、どれも細やかな愛情に満ちあふれてて、スパッとハラを割ってるようで、でもぜったいに誤解されないように、慎重に慎重に何色にも重ねて話してくれるのがすごくいい。健坊のところなんてまさにそれが出でてよかった。けっして持ち上げることはしない。見たまま思ったままに、その時の世間の空気もぜんぶ含めて描いてくれる。だから公平ではっきりする。すごく見えやすい。ちゃんと正子さんの見方がわかるようにぜんぶ書いてくれるから。 おもしろくない文というのはその見方を分かってもらおうとする努力をすっぱ抜いて、どうカッコつけたらいいか、どう言ったら評価されるかばっかり考えてるのかな。正子さんはその点、好きな人たちのことを好きだって書いてるだけでどんな評価も求めてないから潔い。そしてその点が評価されてるのかもしれない。 無駄に持ち上げることは何の評価もしないことと同じくらい愛がないのかもしれない、正子さんの文章には愛があふれてる。こんな人たちがいてよかった。いまはこんな文化が花ひらくことなんてほんとに稀有だろうし、まがいものみたいな場所もきっとコロナでなくなってるんだろうな。 この人たちが生きていた本の文化、(それだけじゃなくて骨董とか、古典とか、能とか)役割も、もう生きた場所にはないのかもしれない。私も動画をよく見るようになって、本という媒体を見ることにたまに目がびっくりするときがある。読みはじめると入り込めるんだけど。 だからこんないい本を残してくれて本当にありがとうございます。私もいつか孔雀になって来てくれるようなパートナーが欲しい。そういえば、旦那さんが亡くなったあとに墓のデザインを考え始めたら楽しくなってきた、っていうところにもすごく笑った。教養としてもエンタメとしても本当におもしろく読める本。
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