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フランシス子へ 講談社文庫
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フランシス子へ 講談社文庫

吉本隆明(著者)

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フランシス子へ 講談社文庫

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 講談社
発売年月日 2016/03/01
JAN 9784062932066

フランシス子へ

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商品レビュー

4.2

6件のお客様レビュー

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2026/02/15

たぶんばななさんの本経由(もしかしたら別の作家さんの書評かも?松田青子さんとか?)で『隆明だもの』に行って、そのなかで担当ライター&編集さんがよき雰囲気で描写されていた流れから手にとれた1冊。 ばななさん宵子さんの影響をおおいに受けつつ、隆明さんがますます素敵なお父さん像...

たぶんばななさんの本経由(もしかしたら別の作家さんの書評かも?松田青子さんとか?)で『隆明だもの』に行って、そのなかで担当ライター&編集さんがよき雰囲気で描写されていた流れから手にとれた1冊。 ばななさん宵子さんの影響をおおいに受けつつ、隆明さんがますます素敵なお父さん像に。それだけの人ではないとはもちろん承知しているが。「子ども扱いせずに、ちゃんと長尺で真摯に正直に話してくれる」というのは、子から見て、親の素敵像になるらしい。たしかにそうかも。私が両親をいまいち尊敬できないのは、ちゃんと話していないからだ。知のレベルでは隆明さんなんて遠く及ばないけれど、それでも私の知の範囲内にはなるけれども息子たちと今後もちゃんと話そうと思ったり。

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2025/10/21

ヨシモト先生の次の言葉を目にして、胸にジーンと来た。 <フランシス子はもうお骨にしてもらいました。 いなくなっても、なんとなく気配を感じるというようなことを言う人もいますが、僕は別段そういうことはないですね。 イメージはまだ歴然と残っているけど、それ以上のことはとくにない。 ...

ヨシモト先生の次の言葉を目にして、胸にジーンと来た。 <フランシス子はもうお骨にしてもらいました。 いなくなっても、なんとなく気配を感じるというようなことを言う人もいますが、僕は別段そういうことはないですね。 イメージはまだ歴然と残っているけど、それ以上のことはとくにない。 いないもんはいない。 亡くなったんだから亡くなったんだってことはわきまえていますから。 フランシス子は死んだんです。> ヨシモト先生は、フランシス子亡き後の心境を夢遊しているようにしかも健気に語っているが、その寂しさが痛く伝わってくるようだ。ヨシモト先生の長女・ハルノ宵子さんほ、『開店休業』(プレジデント社、2013)の中で、最晩年のお父さんの様子を次のように語っている。 <フランシス子は、2011年6月に急性腎不全で死んだ。その時父の中で何かが終った。”守り守られる”対の関係を喪失したのだ。妻も娘たちも最早その対象ではない。父にとってフランシス子が唯一、愛せば同等の愛を返してくれる対象だったのだ。 その頃の父は眠りがちになり、半ば夢の中で思考するようになった。父が亡くなったのは、フランシス子の死から9ヵ月後だった。> ヨシモト先生の娘さんの言葉から、『最後の親鸞』の一節を思い出す。まだお元気な頃(60歳前後)のヨシモト先生はこう述べている。 <どんな自力の計いをもすてよ、《知》よりも《愚》の方が、《善》よりも《悪》の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく《愚》に近づくことは願いであった。愚者にとって《愚》はそれ自体であるが、知者にとって《愚》は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。>(『最後の親鸞』) <《知識》にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そこから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに《非知》に向って着地することができるというのが、おおよそ、どんな種類の《知》にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能に近いので、いわば自覚的に《非知》に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。>(同上) 転記していると頭がクラクラしてくる。「知者にとって《愚》は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題」は、《愚》それ自体である愚者の私にとっては、いとも簡単なことなのにと嘆息が出る。 詳しいことはわからないが、親鸞さんは「愚者でいいではないか」と仰っていると思うが、一方、ヨシモト先生は「愚者になりたい」と語っている。愚者の私から見るとものすごく贅沢なことを、ヨシモト先生は語っている。 ヨシモト先生は最期に「眠りがちになり、半ば夢の中で思考するようになった」ということは、最後のヨシモト先生は、「頂きを極め、そのまま寂かに《非知》に向って着地すること」をやってのけているのかもしれない。 現実は、知者であっても、その意志に関わりなく認知症になることがある。 最後に、こういう話もある。 栗本慎一郎氏の『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』(カッパ・サイエンス、1985)に収録されたマンガ「そして彼もいなくなった」(高橋春男 作)の中で、ヨシモト先生は「古本」という名で登場し、「古本もテレビを見ながら、ねむるようにあの世にいったのである(寿命だったとゆう説アリ)」。 お終い

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2019/02/12

 昔、吉本隆明という詩人がおりまして、ネコのわたしと、女房と娘と一緒に暮らしておりました。やたら、こだわる人でした。なにせ、ほととぎすは、とか、親鸞は、とか。いい年をして気になったら止められない、しようがない性分で、ネコのわたしは、あほらしいので取り合わないようにしておりましたが...

 昔、吉本隆明という詩人がおりまして、ネコのわたしと、女房と娘と一緒に暮らしておりました。やたら、こだわる人でした。なにせ、ほととぎすは、とか、親鸞は、とか。いい年をして気になったら止められない、しようがない性分で、ネコのわたしは、あほらしいので取り合わないようにしておりましたが、それはそれで気にかかるらしく、どうもこっちを見る目が変だと思っていたら、ネタにして本など出されてしまって、これで、もう、三冊目ですかね?  残念ながら、どうも、どこかに行ってしまったようで、女房もいなくなって、今は娘さんと暮らしておる次第で。

Posted by ブクログ

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