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〈いのち〉の自己組織 共に生きていく原理に向かって
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 東京大学出版会 |
発売年月日 | 2016/02/01 |
JAN | 9784130130295 |
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〈いのち〉の自己組織
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商品レビュー
4.7
3件のお客様レビュー
大塚信一さんの「岩波書店の時代から」という本で、この本を良書としているので読んでみた。その本の中で、大塚さんは、日本の思想で場所論をやっているのは西田幾多郎で、その代表的な例が、清水博さんだと言っている。西田幾多郎と同等と言っているのだ! 文体は、学校で先生の授業を聞いている感...
大塚信一さんの「岩波書店の時代から」という本で、この本を良書としているので読んでみた。その本の中で、大塚さんは、日本の思想で場所論をやっているのは西田幾多郎で、その代表的な例が、清水博さんだと言っている。西田幾多郎と同等と言っているのだ! 文体は、学校で先生の授業を聞いている感じで、論文的ではないので読みやすい。「こころは場によって生じる」という考えも、見えないものと見えるものを関連付けて説明しているので、宗教アレルギーの人にも浸透しやすい。 しかし、福島の原発事故で生活の場を全く失った人の心のケアに関しては明確に記されてなかったのには、この考え方に限界があるのか?とも思った。 また、耽美的(宗教的)な表現で締めくくる章が多く、ちょっと誤魔化されているような気がした。 この本を宗教に誘う教本ととらえたならば、「三車火宅」の方便として「場の思想」は有効だと思う。 しかし、何かわからないが、清水さんの話には、なんか欠落したもの、見ようとしてないものがあるように思えてならない。それはファシズムにつながる考え方なんだろう、それを指摘したいが、そこまでの知能が私にはない。山口昌男さんなら端的に発言してくれるだろう。 https://www.banokenkyujo.org/about2018/ 場の研究所 所長 清水博
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わかりにくいところも多かったが、とても納得する考え方だった。主体性、未来に向かって維持発展しようとするいのちを揺るぎない事実として中心に据えて、豊かな命を考える試み。外在的に分析的に考えながら経済を営みながら、いかに内在的ないのちを涵養できるか、考えるべき枠組みをもらえた気がした...
わかりにくいところも多かったが、とても納得する考え方だった。主体性、未来に向かって維持発展しようとするいのちを揺るぎない事実として中心に据えて、豊かな命を考える試み。外在的に分析的に考えながら経済を営みながら、いかに内在的ないのちを涵養できるか、考えるべき枠組みをもらえた気がした。
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自分の考えていたことは、たぶんこういうことだったんだ、そんな気がする。福田恒存さんが生きていたら、養老孟司さんを交えてぜひ対話をしてほしいと思っている。システムというか、舞台というか、脳というか、現れ出てるものは異なるけれど、ひとつの存在という場において、彼らはそのシナリオを本気...
自分の考えていたことは、たぶんこういうことだったんだ、そんな気がする。福田恒存さんが生きていたら、養老孟司さんを交えてぜひ対話をしてほしいと思っている。システムというか、舞台というか、脳というか、現れ出てるものは異なるけれど、ひとつの存在という場において、彼らはそのシナリオを本気で信じ、演じきっている。 主客を分離して考えるという事は、確かにこれまで大きな発展をもたらした。それは、主客にわけて数理的に考えることのあっていた対象だったからだ。しかし、存在というのは、それだけではない。この考えるということ、生きていくということ、これは数理的では決して収まるものではない。存在はもうずっと置いてきぼりにされてきている。数字を集めても、それは心の何を表したことになるのか。 実はデカルトという哲学者も存在というものが主客非分離なものとして考えていたに違いない。cogidoとは、この考えている存在と、考えているということが一致していた状態を現していたのではないか。I think...というのはデカルトにとって痛恨の誤訳だったに違いない。東洋、とりわけ禅の世界では彼の考えていることはなんとまあ当たり前のことだったのである。 存在を考える上でのいのちの与贈循環とは、舞台の上で演じることに他ならないのである。そうして生きているという視覚的同時的状態と、生きていくという聴覚的経時的状態が統合されるのである。そうやっていのちが生まれる。それが脳というシステムなのである。とするならば、一体何を与贈し、何がそこで与贈されていたか、これを知ることが存在を理解することになるのである。作家ならその作品とその読み手を、家族ならその成員とその生き様を。国というのはこの土地のことではなく、そこに住まうひとがいったいこれまでに何を与贈してきたのか、歴史を再考する際の足掛かりになる。地域の何を売り込んでどう活性化させるか、与贈によって生まれたシステムに基づいてなされなければ、その場限りで消滅する。精神病といった病もまた、同様である。 そうしてシステムという舞台は役者と観客によって維持され、ひとつのシナリオが編まれる。役者が死ぬということは、舞台やシナリオが死ぬことではない。むしろ、新たな担い手によって脈々と続いていくのである。そうやって時間の流れを引き受けながら、少しずつ、でも新しい何かが生まれ、つながっていく。かくも考える精神は不滅だったのである。創造とは何もないところから生み出すことではない。真に創造的な存在は、舞台の上でその役を引き受けたうえであえて、新たな表現で演じられる存在なのである。そんな精神のバトンのやり取りがこの地球という舞台では許されている。これが仏の慈悲であり、神の愛なのである。 このように考えていくいことがシュレディンガーの物理学に託した願いだったのかもしれない。 この、<いのち>の与贈循環について、これまでに宗教や哲学者が何度も考えてきたことを改めて科学的に述べるという事、かなり苦心されたことと感じられる。そんな中で、一から多への「一」と多から一への「一」はまったく異なるものであると考えられる。後者は1,2,3...といった数字としての1であるが、前者は0という存在しないものが存在しているという事実としての「一」であるのだと思う。そう考えると、「ゼロから一、そして多」と言った方が正確なような気もする。宮沢賢治のような詩人に言わせてみれば、明滅する交流電流と言い切っただろう。 また、生きていること・生きていくことを考えた場合、死んでいることと死んでいくこともまた同様に異なるはずである。生きていることの反対は死んでいることになるのか。死んでいるということを解明するのはどこまでいっても生者の視点からでしかない。科学の置いてきてしまったのはそういう死の世界でもあると言える。一方 の生きていくこととは死んでいくことと同じ事ではないか。宗教が死後の世界に言及するのはそれが生きていくという内的世界を扱うからに他ならない。それでは、死とは一体何なのか。死んでいくことは生きていくといういのちの営みに他ならない。では、そのいのちがなくなるということは一体何なのか。西田幾多郎はそれを絶対無と言い切り、ヴィトゲンシュタインは沈黙した。ではこのいのちのシステムでは…?まだまだ考える道半ばに立っている。
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