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かるた ものと人間の文化史173
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 法政大学出版局 |
発売年月日 | 2015/11/01 |
JAN | 9784588217319 |
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かるた
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※このレビューにはネタバレを含みます
当時(安土桃山時代~江戸時代初期)の人々の関心・好奇心の強さ、初めて見る遊戯具のカードを模倣してたちまち世界水準で制作する技術の高さそして伝来してきた「南蛮」の衣類、食品、絵画、音楽などとともに、やっと訪れた戦乱のない社会でこの小さな慰安を楽しむことで世界と繋がる平安な生活を楽しむ気分、そのような文化のあり方が見えてくる。 大航海時代にヨーロッパ人がアジアに持ち込み、日本に伝来したものの運命はさまざまであった。鉄砲のように、殺戮と破壊の兵器として急速に発達し、国内の戦乱の帰趨を左右すると共に豊臣秀吉政権の朝鮮侵略では大きな威力を発揮したものの、、日本での改良はそこで止まって歴史の遺物になっていったものもあれば、キリスト教のように殉教の悲劇の中で潜伏していったものもある。カルタは、こうしたものとは違う、もう一つの「南蛮」文化の受容の形を示している。(pp.59-60) 江戸時代後期の「絵合せかるた」の発展の中でとくに目立つ変化の一つが。主として子ども用に制作されたかるたが登場したことである。かるたは、現代の常識からすると奇妙に思えるが、元来は大人の遊技用品であった。それは、海外から伝わったカルタでも、国内で考案された日本式カルタでも同じことである。そして、江戸時代中期に、江戸を中心に一大消費社会が形成され、江戸の武家や町家で、女性や子どもがもはや生産に関わる労働力としてではなく、消費を楽しむ嫁や娘、息子として生活するようになると、この大きな需要を目指して、「芸事」「芝居見物」「買い物」「飲食」などに関連するさまざまな遊び道具が開発され、「女子供の玩びもの」が制作、販売されるようになり、かるたもその先端的な風潮、流行に応じて多様に発展してきた。それが、江戸時代後期になると、「女子供」と一括りにするのではなく、主として子ども向けの需要に応じた特色を持つ新作かるたが制作されるようになってきた。かるたが本格的に、もっぱら子どもの玩具になったのは明治20年代(1887~96年)以降のことであるが、「絵合せかるた」における大人用と子ども用の分離は江戸時代後期に始まったと考えてよい。(pp.239-240) 江戸時代の日本は、享保の改革以降の初等教育の刷新によって、世界に例のないほどに識字率が向上した。それを支えたのが家庭内での最初の教育であった。士農工商の身分差の中であるが、多くの家庭で、年の暮れになると「いろはかるた」を買い求め、正月には幼児が無事に年齢を重ねて4,5歳になったことを祝うとともにかるたを与えて、祖父母が相手をして遊びを通じていろはの文字を教えた。(中略)こうして身についたかるた遊び習慣を引き継ぐのが年長の子どもの「百人一首」のかるた遊びであった。(pp.260-261) かるたの遊技が活発になるには一般に、①楽しく魅力的な遊技法、②美しく使いやすい遊技カード、③安心して楽しめる遊技の会場、④遊技の指導ができるインストラクター、⑤遊技の愛好者の団体が整えられることが必要である。(p.350)
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カルタはポルトガルから日本に伝わった。最初に文献に登場するのは1597年3月に土佐の領主長宗我部元親が発した「長宗我部元親百箇条」「長宗我部元親式目」に賭博かるた諸勝負令停止…とあるそうです。先人の研究に経緯を払いつつ、必ず自分で原典にあたることをおびただしい数を重ねてしまとめた...
カルタはポルトガルから日本に伝わった。最初に文献に登場するのは1597年3月に土佐の領主長宗我部元親が発した「長宗我部元親百箇条」「長宗我部元親式目」に賭博かるた諸勝負令停止…とあるそうです。先人の研究に経緯を払いつつ、必ず自分で原典にあたることをおびただしい数を重ねてしまとめた本でした。これを憲法学者であることと並行して行っていたとは、2つくらいのことなら誰でも真剣に取り組めると先生がいっていたことを思い出します。私が思うカルタは「絵合わせ」「歌合わせ」カルタですが、ポルトガルからきた当初のものは勝負が早く決まるであろう少ないパターンでした。平成3年民族学研究者伊藤真の研究成果であるインドネシアスウェラシ島でポルトガルから伝来した龍のつくカルタが今でも遊ばれていることの発見は、ポルトガルのドラゴンが日本以外の土地でも生存していたうれしいニュースであったとのこと。アジアを旅するという学生には、現地で遊ばれているカードゲ—ムや麻雀牌を集めてきてくれといっていたことも思い出しました。平成22年以降、光村図書小学三年生の国語の教科書で江橋先生は、「百人一首」「いろはかるた」の説明、「郷土かるた」作りを勧めているそうです。
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かるた、といったら何を想像するか。いろはかるたも捨てがたいが、百人一首歌合わせ、も候補だろう。 このかるたは江戸時代に普及して、多くの日本人が、日本という国が皇室を中心とする和歌の文化で成り立っているという観念を持つようになったという。 かるたはポルトガルから伝わったけれ...
かるた、といったら何を想像するか。いろはかるたも捨てがたいが、百人一首歌合わせ、も候補だろう。 このかるたは江戸時代に普及して、多くの日本人が、日本という国が皇室を中心とする和歌の文化で成り立っているという観念を持つようになったという。 かるたはポルトガルから伝わったけれど、鎖国中にそのことは忘れられて、大正時代ごろまではオランダから伝わった、ということになっていたらしい。 日本は何でもすぐにもじって見立て、外来の文化を溶かしこむ。かるたも然り。そして日本独自の発展として、カードを表で配る、場に晒す、というやり方だ。カードゲームは裏にして中身がわからない、というのが通常だが、日本ではこれを表配りにする。本来裏配りのものを表配りにする、という発想。そして和歌を含んだ文芸遊技のかるた化。 とはいえかるたも綺麗な話ばかりではない。賭博がついてまわる。時の権力者は賭博かるたを禁じたがるかと思えば、実はそればかりではない。博徒がガリガリやるような大博打は取り締まるが、市民がやる小博打ならいいよ、なんていうのが享保の改革だった。 で、時は流れて、1989年まで、トランプ類税法、なんてのがあって、お上がかるたを取り仕切っていたりしたのだ。昭和中期までは、「正月には新品のいろはかるたがあるべきだ」なんていう観念が残っていたそうで(なんとなくわかる)、そういうかるたの絵柄も収録されている。で、昭和後期までは百人一首かるたが正月遊技だったのだ。これはよくわかる。 と、本書をつまんで追いかけただけの紹介になってしまったが、やはりこの「ものと人間の文化史」はたのしい。かるたの変遷の実に日本的なことよ。そしてノスタルジーが存分に含まれるが、昭和後期まではたしかに日本文化の伝承がかるたを通じて少しは行われていたのであろうなあ、と自分と歴史のつながりも、ほんのりと感じられて、良かったのだ。
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