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時間 岩波現代文庫 文芸271
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2015/11/19 |
JAN | 9784006022716 |
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商品レビュー
3.6
7件のお客様レビュー
1937年の南京事件に遭遇することになった、中国人・陳英諦の手記というかたちで書かれた作品です。 妻の莫愁、息子の英武をうしない、日本軍の蛮行が収束したあとのことを冷静に見つめていた従妹の楊嬢も、身体と心に深い傷を負うことになります。 そんな状況にもかかわらずみずからの利己心...
1937年の南京事件に遭遇することになった、中国人・陳英諦の手記というかたちで書かれた作品です。 妻の莫愁、息子の英武をうしない、日本軍の蛮行が収束したあとのことを冷静に見つめていた従妹の楊嬢も、身体と心に深い傷を負うことになります。 そんな状況にもかかわらずみずからの利己心を満たすために奔走する陳の叔父や、知識人の弱さを見せる陳の家を接収した桐野中尉などの人物が脇役として登場し、イアン・ブルマが「人間の想像力の限界が試される事件」のなかで、彼らがどうしようもないほどに「人間」であることを、そのふるまいによって示します。 「いまわたしは鬼子という言葉をつかった。が、もう使うまい、……この逆立ちした擬人法は、長い時間のあいだには、必ずや人々の判断を誤り、眼を曇らせるであろう。彼等は鬼ではない、人間である」と、著者は主人公に語らせています。そして主人公自身も、妻子を殺され、世界の蝶番がはずれてしまったような当時の南京において、「人間」的な思惑から逃れることはできません。本作の最後で著者は、登場人物の一人である「K」に、「そうか、非人間的、なんてあまり口に出すべきじゃないな」と語らせていますが、そのことにかえってこの世界に対する絶望の深さを読者に教えるとともに、そのような絶望をくぐり抜けたことでようやくかいま見える希望が暗示されているのかもしれないと感じました。
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※このレビューにはネタバレを含みます
1945年5月、武田泰淳とともに南京に旅した堀田善衛は、 夕陽をあびて紫や金色に照り映える紫金山をのぞみつつ、 <到底筆にも口にも出来ない蛮行―南京大虐殺>― 「いつかはコレを書かねばならないであろうという、不吉な予感にとらわれた……」と、 自身あとがきで記している。 それにしても「時間」というタイトル…… 断絶された過去の川と、現在の川を結ぶこと――「悪夢に包囲された世界=南京にも、人間の世界全部に通ずる時間が存在していたのだ」と、堀田は言う。 或いは「人間の時間、歴史の時間が濃度を増し、流れを速めて、他の国の異質な時間が侵入衝突してきて、瞬時に愛する者たちとの永訣を強いる……」とも。 とまれ、「古代ギリシアでは、過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、 見ることのできない未来は、背後にあるものである、と考えられていた」――という。 ホメロスの「オディッセイ」の訳注を指して、「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入っていく、ということになるだろう」――と。 然れば、 未来は背後=過去にあるのだから、可視的過去と現在の実相を見抜いてこそ、不可視の未来のイメージを掴むことができる――という訳だ。
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辺見庸の「1★9★3★7」を読んで以来読まねばと思っていた1冊。歴史修正主義の動きがあまりにひどい昨今こそ、こうして被害者側の目線になって当時を日本人を描いた本書の意義は大きいだろう。本書が書かれた1950年頃は東京裁判の後で南京虐殺の存在が国際的にも知られていたことから現代の感...
辺見庸の「1★9★3★7」を読んで以来読まねばと思っていた1冊。歴史修正主義の動きがあまりにひどい昨今こそ、こうして被害者側の目線になって当時を日本人を描いた本書の意義は大きいだろう。本書が書かれた1950年頃は東京裁判の後で南京虐殺の存在が国際的にも知られていたことから現代の感覚で想像するほどセンセーショナルなものではなかったと辺見庸はあとがきで書いているが、それでも「戦時中のことで仕方なかった」と片付けたがる日本のメンタリティの中で、行為と向き合うのは勇気のいる執筆だったはずだ。今の時代こうした作品が発表されることはほぼ不可能と思うと、なんと日本人は歴史から何も学ばず、事件を矮小化しようとすることで直視を避ける情けない道を選んでしまったかと俯かずにいられない。
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