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対訳でたのしむ砧
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 桧書店 |
| 発売年月日 | 2015/01/01 |
| JAN | 9784827910469 |
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対訳でたのしむ砧
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世阿弥の作である。 表題の砧とは、布を打って艶を出し、また柔らかくするための道具。秋の夜長の仕事として女性たちはしばしば砧を打った。秋の夕暮れに響く音に情緒があるため、古来、和歌や俳句の題材ともされている。 九州芦屋(今の福岡県)に住む男がいる。訴訟があるため、男は妻を残して、...
世阿弥の作である。 表題の砧とは、布を打って艶を出し、また柔らかくするための道具。秋の夜長の仕事として女性たちはしばしば砧を打った。秋の夕暮れに響く音に情緒があるため、古来、和歌や俳句の題材ともされている。 九州芦屋(今の福岡県)に住む男がいる。訴訟があるため、男は妻を残して、都に向かう。ことがうまく運ばず、男はなかなか家に戻れない。そうこうする間に、3年という月日が経つ。鄙に残された妻は、夫の心変わりを疑い、侘びしさをかこつ。妻が夫を思って打った砧の音が遠く離れた夫に聞こえたという中国の故事を思い出し、嘆きを込めて砧を打つ。 そんな思いも届かず、またこの年も帰れないと夫から知らせが来る。 絶望した妻はふとした風邪が元でこの世を去ってしまう。 ここまでが前半である。 後半、妻の死を知り、夫は急ぎ故郷へ戻る。妻は夫への恨みを抱いて死んだため、邪淫地獄に堕ちていた。妻の霊魂を呼び戻す夫。妻は夫を嘘つきと罵り、不実をなじる。 夫は一心に経を読む。その真心と、妻が生前に打った砧の音に混じる「仏法の花を咲かせる種」が実り、妻は成仏を遂げ、極楽へと去っていく。 悲しい話である。また、現代にもどこか通じそうな話である。 恋しい人に会いたいのに会えない。こんなに想っているのに、いくら仕事だからといって、顔も見せてくれないなんて。遠距離恋愛や単身赴任が元となる、そんな女の恨み節は、今でも珍しくはなさそうだ。 いや、それにしても「本当に死んでしまうのか、妻」とまずびっくりする。「夫も、妻が死んでから慌てて帰るくらいなら、顔を見せてやればよかったのに」とも思う。 しかし、この時代、九州と都は本当に遠かったことだろう。そしてまた、鄙の秋の淋しさは身に染み通るほどだっただろう。ちょっと電話してね、というわけにもいかない。心変わりを疑っても、確かめる術もない。 淋しくて淋しくて、想いよ届けと砧を打つ。静けさの中、蕭々と鳴り響く音が、さらに妻を嘆かせる。 こんなにも私は淋しいのに、あなたは夢にすら現れてくれない。 絶望の中、妻は死んでしまうのだ。 夫とて、妻が疎ましくて離れているわけではない。よんどころない所用だから致し方ない。そして、おそらく、ちょっと甘えん坊の妻が、この夫は愛しかったのだ。だから帰ってくる。霊魂でもよいからと呼び寄せる。亡霊の妻の恨みも夫はおそらく「すまぬ、すまぬ」と聞いている。「かわいそうに、成仏せよ」と経を読む。 やっと会えたのに、あの世とこの世。二人はまた袂を分かたねばならない。 改めて詞章を読むと、名作と名高く、よく仕舞でも上演されるとのことで、ことばに奥行きがある。 小筵(さむしろ)、忍ぶ草、間遠の衣(目の粗い布)、声も枯野の虫の声といった、秋の淋しさ・寒さを思わせる句が連なり、深々と心許ない寂寥感が漂う。 世阿弥は本作を、「かやうの能の味はひは、末の世に知る人有るまじ」と言っていたという。末世と言われた当時を指していたのか、それとも後世を指していたのかは不明なようだが、難曲と目していたようだ。 世阿弥の意図はともかくとして、この話で一番理解が難しいのは、個人的には、いささか唐突なほど、妻が最後に成仏してしまうところだ。 原文だと「打ちし砧の声の中 開くる法(のり)の花心 菩提の種となりにけり 菩提の種となりにけり」という部分である。 妻は怨霊となって夫に祟りはしない。恨み辛みを吐き出して、それで静かに消えていくのだ。 末世とも呼ばれた室町の世。 一時は義満の寵愛を受けた世阿弥も、義満亡き後、静かな余生とはほど遠い厳しい人生を送ることになる。「砧」の成立が世阿弥の人生のどの時期に当たるのか、ちょっとわからないのだが、時代の空気としては、どこかしら不穏なものを抱えていたものだろうか。 取り返しのつかない別れ、人知では如何ともしがたい理不尽は、山ほどあったことだろう。そんなとき、人々はあるいは、神や仏にすがるしかなかったのかもしれない。 砧を打ちながら抱いた、恨みだけではない、夫を想う真心。現世では救ってやれなかった妻を、せめて浄土へ送ってやりたいという後悔。夫婦の切なる想いを舞台の上で叶えてみせるのが、世阿弥自身の「祈り」だったのかもしれない。 *この舞台、前半の途中からですが、テレビ放送で見ました。夫役のワキが先日亡くなった人間国宝・宝生閑さん。訃報とともに紹介されていたインタビュー記事に、感銘を受けたのを思い出しました。
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