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親鸞 完結篇(下)
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親鸞 完結篇(下)

五木寛之(著者)

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 講談社
発売年月日 2014/11/01
JAN 9784062910101

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商品レビュー

3.7

21件のお客様レビュー

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みんなの感想まとめ
  • 親鸞人生最晩年
  • 群像劇
  • 京都帰還
  • 信仰と葛藤
  • 内面的成長
  • 冒険と苦悩
  • 師を超える旅
  • 人間関係の深化
  • 青年から聖人へ
  • 文化と歴史の交差

人生の晩年を迎えた親鸞の姿が描かれ、彼の内面的な葛藤や人間関係の深まりが印象的に表現されています。第三部では、還暦を過ぎた親鸞が、家族との関係や信仰の広がりに悩みながらも、素直に自身の心情を受け入れていく様子が描かれています。冒険小説の要素が残る中で、感情の揺れや人間らしさが強調されており、読者は親鸞の成長を共に体験することができます。再登場する登場人物たちとのやりとりや、親鸞の最期に至るまでの過程は、深い感動を呼び起こします。全体として、エンターテインメント性と人間の真実が融合した作品であり、読者に考えさせられる要素が多く含まれています。

※この内容はAIが作成したものであり、ブックオフ公式オンラインストアの見解や意図を示すものではありません。

2026/10/05

ただ、念仏をとなえることのみに生きたことが神聖さを帯びて、観音菩薩になってしまう。ラストの親鸞と娘の思いがすごく印象的。 小説として面白かったと思う。

Posted by ブクログ

2025/11/25
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

ようやくここまで来た。親鸞上人、齢90歳往生なさった。ご命日は11月28日とちょうどまもなく。そういえば我が家の菩提寺から御正忌の法要のご案内が来ていた。以前は一月くらいに行われていたのが、旧暦と新暦の兼ね合いで、今は気候の良いこの時期になさってるとのこと。この時期に読み終えられたのは檀家冥利に尽きる…。 とはいえ、筆者があとがきで、この小説は「稗史小説」(作り話のたぐい)と言われているように、これまで5巻の集大成となったこの巻にもスペクタクルなエンタメ要素が詰まってる。そういう意味では唐風のお寺の落成の催しがクライマックスだった。映画化したら良い見せ場になりそうだけど、人もセットも大掛かりになりそう。 犬麻呂の跡を継いだ申麻呂の秘密。そして、竜夫人の正体が明らかになる。申麻呂は予想してなかったが、竜夫人は予想が当たった。どうせならあの娘がどうなったかもちょっと知りたかったけど、全般、親鸞を中心に話が進んでいくので、どうしても越後の恵信のあたりについては話に上がってこなかった。まぁ仕方がないっちゃ仕方がなかったかな? これまで出てきた登場人物がやっぱり時折り顔を見せるので、記憶を辿りながら読んだ。この点からは、全巻手元に置いて読み進めるのが良かったかも⁇

Posted by ブクログ

2024/09/04

(2014/12/10) 五木親鸞の完結編。 関東に旅立った息子善鸞は独り立ちできるのか。 専修念仏を排除しようとする覚蓮坊(かくれんぼう)の野望に対し、 竜夫人、親鸞はどう戦うか! なんてあたりがどきどきはらはらさせられた上下二巻。 あっという間によむことができた。 でもね。...

(2014/12/10) 五木親鸞の完結編。 関東に旅立った息子善鸞は独り立ちできるのか。 専修念仏を排除しようとする覚蓮坊(かくれんぼう)の野望に対し、 竜夫人、親鸞はどう戦うか! なんてあたりがどきどきはらはらさせられた上下二巻。 あっという間によむことができた。 でもね。 はらはらさせられたわりには、落ち着きどころはなーんだって感じ。 盛り上げたんだったら最後は花火を打ち上げてほしかった。 前4冊から間が空いて、過去のエピソードを忘れてしまったのも残念。 いまさら振り返れない。 膨大な資料の上の小説ではあろうが、これが親鸞そのものであったかは誰も知まい。 ただ、親鸞が悩んだとされていることは私でもうっすら思いあたることがあった。 念仏を唱えていれば何をしても浄土に行ける、と考える不届きものをどう考えるか。 親鸞の教えを受けた者同士がいがみ合う実態をどうとらえるか。 これらはそもそも「教え」の限界を伺わせるものである。 その意味では法然の「念仏だけを唱えていればいい」という教え自身が破たんしているのだ。 親鸞は修行を重ね、真の道を探してもがき苦しんでいたところに法然の教えに出会い、 これを理解することが出来た。自分のものにすることが出来た。 しかし世の中の大半の人はもっと浅い所に生きている。 そういう人に「念仏を唱えていればよい」といった時点で解釈が生まれる。 都合よくとらえるものもいる。 そのまま受け取って、念仏だけ唱える者もいる。 前者は論外だが、後者も真の道ではあるまい。 やはり自分で考えてたどり着かねばいかんのだ。何事も。 人の教えはあくまで気付きを得る手段であるべきもの。 宗教はその時点で破たんしているとさえ思う。 戒律が厳しい宗教などナンセンス。 その点この小説の最後に、親鸞は「他の神仏を否定しない」ということを言っている。 地場で昔から行きづく伝説、言い伝えまで否定する教えには無理があるのだ。 善鸞はそこに首を突っ込み総すかんをくらった。 今も多くの宗教がそういう状態になっていよう。 他の考えの存在を許しながら、認めながら、自分の考えを固める。場合によっては軌道修正する。 強くもあり、弱くもある。しなやかであるともいえる。柔軟でありながら固い。 そんな考えにたてれば、生きていくのも少しは楽になるのではないか。 そんなことを考えさせられた。

Posted by ブクログ

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