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明日なき今日 眩く視界のなかで
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 毎日新聞社 |
発売年月日 | 2012/09/28 |
JAN | 9784620318011 |
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明日なき今日
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70歳近くになってから、詩を発表しはじめ、その第一詩集『生首』で中原中也賞、第二詩集『眼の海』で高見順賞を受賞。この人を詩に向かわせたものは一体何かが気になっていた。本屋でこの本を見つけ、目次に「傷を受けて、ものを書く」「短詩に命を賭けること」という言葉が飛び込んできて、迷わず...
70歳近くになってから、詩を発表しはじめ、その第一詩集『生首』で中原中也賞、第二詩集『眼の海』で高見順賞を受賞。この人を詩に向かわせたものは一体何かが気になっていた。本屋でこの本を見つけ、目次に「傷を受けて、ものを書く」「短詩に命を賭けること」という言葉が飛び込んできて、迷わず購入。まず、これらの文章から読み始める。 「ものを書くということは、俳句であれ詩であれ散文であれ、受傷が前提にあるものだと思います」と語っている。著者の詩集『眼の海』を読んで、納得できた。著者の受けた傷は、単に故郷の石巻市が震災により津波に呑まれたことだけによる浅いものでないこともわかる。震災前から、この現代文明への<異和>がすでに感じられていたにちがいない。著者が、震災より前に『生首』を上梓せずにはいられなかったことからも明らかだ。さらに「傷を受けて、ものを書く、そのこと自体が希望なのではないか」とも語っている。『眼の海』の一番最後に置かれた詩編「フィズマリウラ」は、希望を暗示するように、「アマン(エチオピアの小さな村)に雪がふる」という預言者の言葉で結ばれている。 <いま、なぜ「滅亡」なのか>、<沖縄論>では、インタビューに答えて、現在の思いを語っている。大衆が生み出す全体主義=「おのずからのファシズム」の足音が聞こえるという指摘には、肯かざるをえない。また、著者は徹底した「パシフィズム(平和主義、反戦主義)」も提唱している。「命を捨てて国を守る意識って大事ですか? 僕はそうは思わない。この国が命を捨ててまで守らなければならないような内実と理想をもった共同体かどうか、国という幻想や擬制が一人ひとりの人間存在や命と引き合うものかをまず考えたほうがいい」と語っているが、人間という存在の原点に立ち還った原理的考察が求められていることは確かだ。 <パシフィズム>という言葉を初めて知る。調べてみると面白いことが分かる。太平洋をPacificと呼ぶが、語源は平和(pac)を作る(ific)からきており、海が穏やかなことからマゼランが命名したらしい。 沖縄には「肝苦りさ(ちむぐりさ)」という言葉があることも教えられる。これを機に「<ハシズム>より<パシフィズム>を!」と、肝に銘じたい。
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未明に読んだ。辺見庸の作品はどれもそうだが、何度も胸を衝くような読書体験だった。 午前5時。本を置いて、私の喫煙場所である増築スペースで一服する。あたりは暗い。森閑としている。いや、1時間前より暗いくらいだ。夜明け前が一番暗いとものの本で読んだが、実際、闇が濃くなっているように思...
未明に読んだ。辺見庸の作品はどれもそうだが、何度も胸を衝くような読書体験だった。 午前5時。本を置いて、私の喫煙場所である増築スペースで一服する。あたりは暗い。森閑としている。いや、1時間前より暗いくらいだ。夜明け前が一番暗いとものの本で読んだが、実際、闇が濃くなっているように思った。 たばこをふかしながら、星空を見上げ、訝しむ。このまま夜が明けなかったらどうしよう、という不安が、頭をよぎる。7時を過ぎて闇夜のままだと、一体どうなるだろうと想像してみる。 初め、人々は往来へ出て、ひそひそと囁き合うだろう。やがてNHKあたりが、番組を変更して夜が明けない今日について特集し、民放も追随する。戸外がざわついてくる。絶叫も聴こえる。犬の遠吠えがそこに交じる。 それでも恐らく多くの人は、私も含めて職場へ赴き、テレビを横目に精励するだろう。 オウム真理教のサリン事件の時だって、構内で倒れた人を放って多くの人は会社へ急いだというし、阪神大震災の時だって街が倒壊しているというのに返却期限の来たビデオを返しにレンタルビデオ店へ向かった人がいたという。 習慣とは、我々が想像しているよりも、はるかに強靭なものだ。 やがて数日もすると、闇夜が日常になる。笑いさざめき、会社の愚痴を言い、「がんばろー」という唱和に自分の声を重ねる。「アラスカあたりでは夜が明けたらしい」というデマが飛び交う一方で、「闇夜は努力で超克できる」と喝破する本も出版され、それなりに売れるだろう。「闇夜はビジネスチャンス」というテーマのセミナーも盛況になるだろう。闇夜でさえ、商品化され、消費され尽くすのだ。 そのうち誰も、闇について、語らなくなる。 辺見庸のいう滅亡とは、実のところ、そのようにして訪れるのではないか。夜はまだ明けない。
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