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聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化 中公文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 中央公論新社 |
発売年月日 | 2012/02/23 |
JAN | 9784122056077 |
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聴衆の誕生
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9件のお客様レビュー
初版1989年、増補1996年、文庫化2012年。 クラシックの演奏会の、現在の聴取マナーのようなものや「楽聖」等の神話化が出来ていったプロセスを、19世紀の演奏会の歴史に沿って明かしていくのが最初の方。 それから20世紀になって自動ピアノとか複製、カタログ文化、商業主義な...
初版1989年、増補1996年、文庫化2012年。 クラシックの演奏会の、現在の聴取マナーのようなものや「楽聖」等の神話化が出来ていったプロセスを、19世紀の演奏会の歴史に沿って明かしていくのが最初の方。 それから20世紀になって自動ピアノとか複製、カタログ文化、商業主義などが目立っていき、いよいよポストモダン期に至って「軽やかな聴取」が席捲する、という点を著者は強調する。 何と言ってもボードリヤールのケレン味ある思想に興奮していた、日本80年代のポストモダン期である。その文脈で見ればこんな考え方にもなるかなという感じだった。 96年の増補版で加えられた補章では、本文をものの見事に相対化し、「今の考え方は違う」と転向してしまっている。バブルがはじめて不況が到来し、日本は新しい、暗い時代に突入したのである。 このように、面白くはあっても、本書のパースペクティヴは「あの時代のもの」という限定を付けざるを得ない。それでも、なかなか興味深い指摘もあってそれらは一概に無効とは言えないと思えるし、結論や描く将来像に古さはあってもその前段階の分析は有効であるという気がする。 そんな部分については、なかなか参考になる本だ。私の言葉で言えば、19世紀ヨーロッパのベートーヴェン崇拝は確かに「権力」そのものであったし、権力であるからには、外部を除去するためには暴力も活用したのである。 その権力を否定し身を反転させようとしたのが20世紀であったが、ある程度ポストモダンの勢いが減退したとはいえ、古い権力がそのままで復活するなんていうことは無い。知の権力に対して経済の権力こそが現在もっとも凄まじいのだが、我々は権力による暴力や疎外に屈することなく、一人一人の生命を全うしなければならない。出口は個人の中にしかないのかもしれない。
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壮大だった。1989年の初版に、1996年に補章が加えられたものを、2012年にあとがきを足して文庫化された版を読んだ。 以下、1996年の補章より。 「真の歴史的事実」などというものは実はないのであって、それぞれの時代によって理解された「事実」があるにすぎず、その「事実」が時...
壮大だった。1989年の初版に、1996年に補章が加えられたものを、2012年にあとがきを足して文庫化された版を読んだ。 以下、1996年の補章より。 「真の歴史的事実」などというものは実はないのであって、それぞれの時代によって理解された「事実」があるにすぎず、その「事実」が時代の中で様々に変化しつつ、文化を形成してきたと考えた方が理にかなっているのではないだろうか。 この文章を踏まえると著者の言う「軽やかな聴取」がより深く、面白く感じられるように思う。読み応えがあって良かった。再読必須。
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シンと静まりかえった客席で、ひたすら耳を傾ける演奏会の風景は近代になってからのもので、現在クラシックと言われる音楽が現役であったころには、貴族の社交の場におけるBGMであったという導入から始まって、音楽を聴く姿から、その聴衆に対峙する演奏の姿までを論じており、クラシックを聴きに行...
シンと静まりかえった客席で、ひたすら耳を傾ける演奏会の風景は近代になってからのもので、現在クラシックと言われる音楽が現役であったころには、貴族の社交の場におけるBGMであったという導入から始まって、音楽を聴く姿から、その聴衆に対峙する演奏の姿までを論じており、クラシックを聴きに行く私にとってはもちろん、あまり聴きに行かないという人も面白く読めそう。 発表されたのがバブル期であったせいか、クラシックを聴きに行くことに特別感がありすぎる描き方をしているように思える部分もありましたが。自分が演奏会を聴きに行くときのことを振り返ると、演奏をしている方への敬意はあるけれど、修行のように静まっているわけではないし、隣の席でプログラムをめくるのはともかく、ビニールをガサゴソされたり、ぼそぼそ話されるのは楽しむ気持ちに水をさされる気がします。一方、対比してロックのコンサートではと挙げられているけれど、私はロックでも座って聴きたいし、手拍子はともかく、観客の合唱より出演者の声や演奏が聴きたいけれどなあ。 神格化、偶像化される「巨匠」がなぜ行われたか、パガニーニのヴァイオリンやリストのピアノを聴きに行く形から、「演奏」でなく「作品」を聴きに行くのが良しとされるようになり、パガニーニらが「ヒーロー」であったのが作曲者が「ヒーロー」に仕立て上げられたというのも面白かった。 複製芸術の普及による聴衆の変質が非常に大きな転換として取り上げられていました。ちょうど昨年末に読んだベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」でも論じられていた「アウラの消失」について論じられていました。ただ、この本では増補版発行時に、初版の後の7年の変化がくわえられましたが、その1996年以降の内容は文庫版でも加えられていないので、インターネットの登場、音楽のネット配信、曲ごとの個別ネット販売、無料での配信といった、音楽を聴くことへの影響がより大きいと思われるネット普及後の内容が書かれていないのは残念でした。その辺りを論じたものをぜひ読んでみたい。 グールドの「継ぎはぎ」による録音デザインでの新しい音楽への試みは初めて知ったので興味深かった。聴き手が自分の好きなようにテンポやピッチを調整し、編集して聴取する時代というのは、まさしく今来ていると思います。アルバムを頭らか順に聴く制約もなく、曲ごとに、それも頭の辺りを聴いて気に入ればそのまま聴き、気に入らなければ他の曲に移ると言う、まさに本で言われている「軽やかな聴取」が現在、行われていると思います。それは聞き手にとって自由度の高い環境ではありますが、読書会の参加者の方が言っておられた「交響詩などを続けて聴くことによるドラマ性」は届けにくくなっているように思います。そして本書でいう「垂直方位」の消失、「価値の平板化・水平化」というのは、現代にも、十分あてはまるように思います。
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