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時間と出来事
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時間と出来事

渡辺由文【著】

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 中央公論新社
発売年月日 2010/08/25
JAN 9784120041457

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2019/07/09

「川の流れのように」という歌があるように、われわれは時間があたかも流れているかのように表象しまた表現することがしばしばである。しかしよくよく考えてみれば時間は流れてなどいない。だれも時間などというものを目撃したことはないのだから。しかしそれでもわれわれは「時間の流れ」という言い回...

「川の流れのように」という歌があるように、われわれは時間があたかも流れているかのように表象しまた表現することがしばしばである。しかしよくよく考えてみれば時間は流れてなどいない。だれも時間などというものを目撃したことはないのだから。しかしそれでもわれわれは「時間の流れ」という言い回しをやめない。その言い回しによってわれわれは何を表現しようとしているのか。どうして時間が流れているように感じるのか。そもそも時間とは何なのか。  この問題に関しては多くの哲学者たちが挑戦してきた。そして彼らのほとんどは本来的(形而上的)な時間と非本来的(形而下的)な時間を区別し、前者から後者が派生するのだと説いた。すなわちわれわれは本来的な時間を空間化して非本来的な時間を捏造しているがために、そこからさまざまなバグが発生してしまうのだ、と。  しかし渡辺は言う。本来的な時間などというものはない。それこそ哲学者の捏造である。というより「時間」という概念そのものが、そもそも言語によって制作されたフィクションなのだ。「時間が流れる」という表現は時間の空間化によって生まれたのではなく、出来事のモノ化によって生まれたのだ。そして出来事とは語られて初めて成立するものなのだから、時間は言語によって世界にもたらされたのであり、言語以前には時間などというものはなかったのだ。なるほど言語がなくても想起したり予期したりすることはできるかも知れない。だが想起と過去、予期と未来とは実は関係がない。――このような渡辺時間論が本書の序盤でまず開陳され、その後に歴史的・心理的・哲学史的・文化的側面からさまざまな検証および自説の補強が展開される。  著者は博士号を取得してはいるがいわゆる大学の教授ではない。そういった意味ではプロではない。しかるにこの豊富な知識量、緻密な論理構成はどうだろうか。何と言っても驚かされるのはその読みやすさ、分かりやすさである。著者が徹底的に考え抜いた上で、言葉を選んで誠心誠意語りかけていることが文章から感じられ、読者は安心して読むことができ長さを感じさせない。  ハイデッガー等の本来的時間論を空論として退けているあたりは中島時間論や大森時間論にも通じるものがあるが、中島・大森が時間の原型を過去に求めているのに対し、渡辺は(食物を獲得するために、あるいは危険を回避するために)前を見て進むという人間本来の関心のベクトルから未来を重視する点が異なっている。時間の起源が言語活動であることに異存はないが、その言語に今後は照準が合わせられることになるのだろうか。  なぜもっと話題にならないのか不思議なくらいの名著だと思うが、強いて難点を挙げるとすれば、過去の偉大な哲学者たちの時間論を批判している第二部だろうか。著者の研究熱心さには頭の下がる思いがするが、そこだけがネガティヴな論述になっている印象は否めない。批判したくなる気持ちは分かるが、充分自立しているこの哲学書において過去の哲学者に対する批判は不要であるばかりか、読者の感情を逆撫でするようなことにもなりかねない。それが災いして黙殺されているのだとすれば勿体無いことである。ともあれ一人でも多くの哲学ファンにぜひ読んでほしい一冊である。

Posted by ブクログ

2014/06/03

出来事は共同体によって共有される。その共同体の安定度は共同体存立の安定度に依存していると少し前で述べたが、共同体が安定し、ある出来事の共有が極めて強固に確立している場合、われわれはその出来事を特に「事実」と呼ぶ。事実とは「物の動き自体」や「人の振る舞い自体」などではない。それは、...

出来事は共同体によって共有される。その共同体の安定度は共同体存立の安定度に依存していると少し前で述べたが、共同体が安定し、ある出来事の共有が極めて強固に確立している場合、われわれはその出来事を特に「事実」と呼ぶ。事実とは「物の動き自体」や「人の振る舞い自体」などではない。それは、われわれが当該の出来事の内容を、それが不確定であるのにもかかわらず限りなく確定的と見なしてその出来事に与えるタイトルなのであり、その内容の不確定性が当該の共同体ではいっさい問題にならないような出来事のことを言う。 だが事実も出来事である。出来事の共有が不安定で、実は共同体の同意事項に過ぎないことは前に縷々述べたが、そのことは、共同体内で内容の確定度が極めて高いとされる事実にも当然あてはまるのだ。われわれはこのことを本当は心の底では十分弁えている。だから時折「事実の認定」という作業を行なうのである。

Posted by ブクログ