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人は死ぬから生きられる 脳科学者と禅僧の問答 新潮新書
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人は死ぬから生きられる 脳科学者と禅僧の問答 新潮新書

茂木健一郎, 南直哉【著】

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人は死ぬから生きられる 脳科学者と禅僧の問答 新潮新書

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 新潮社
発売年月日 2009/04/20
JAN 9784106103070

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商品レビュー

3.9

17件のお客様レビュー

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2025/08/13

死や絶望があるからこそ、生きられるという感覚や今の自分があるという感覚。 なるほどと思わせられることばかり。 とてもおもしろかった。 私は自由というのは「航海する人」だと思う。「航海する人」は目的地を自分で決め、 そこから逆算して航路が生じる。そして自分が今どこにいるか、現在...

死や絶望があるからこそ、生きられるという感覚や今の自分があるという感覚。 なるほどと思わせられることばかり。 とてもおもしろかった。 私は自由というのは「航海する人」だと思う。「航海する人」は目的地を自分で決め、 そこから逆算して航路が生じる。そして自分が今どこにいるか、現在地を知っている。 「目的地·航路・現在地」、この三つを知っている人が、自分の力で海を渡って行ける人です。ところが、この三つのどれかを欠くと漂流してしまう。目的地がわからない、航路を知らない、現在地がわからないという状態。この人は自由でも何でもない。何もできないし、どこへも行けない。それを避けるには、目的地を決めて航路を選択せざるを得ない。つまり自己のあり方を決めなければいけない。けれど、これは苦しい。 その負荷から自由になりたいというのは、よくわかる。仏教でよく誤解されるのは、「あれもない。これもない。ないものもない」と全部解体して「はい、ゴール」と。 そう思う人がいっぱいいる。けれどそうじゃない。一回ばらして、もう一回自力で作り上げるっていうのが、仏教の修行なんです。ここがよく誤解されるところです。だから苦しいんです。だから修行なんです。ところが中には、それが悟りで真実だという人がいる。その先どうするのかは何も示されない。 生の最初から思い通りにはなっていない。思い通りにならないから辛いんです。ですが、人類はすべて最初から思い通りに生まれた人はいない、ということをもっと自覚するべきでしょうね。 苦痛が取り除かれていく現代社会について批判的に論じていますが、苦というものが除外されていくことの危険が今日リアルにわかりましたね。苦は生きることの本質と結びついているから、それを取り除いたら結局生きていないことになる。 僕も相当病んでるのかもしれない(笑)。でも、生きていること自体が病んでいる状態ということには、激しく同意します。やっぱり生は、まがまがしいものだと思う。 南 よく恐山で、霊魂があるかないかなんて話は仏教にとっては根本的な問題でも何でもないという話をします。じゃあ、何が仏教として一番大切なのか――。 おそらくお釈迦さんは、生きていて嬉しくて楽しくて結構なことより、辛くて悲しくて切ないことの方が多いというのが、仏教において物を考える前提であると言いたかったんじゃないかなと思うんです。もちろん、毎日が楽しい人はそれで結構。だけど仏教は、辛くて寂しくて苦しいことの方が多いという前提で話を始めるんだと言っている。 でもね、にもかかわらず死を選ぶことなく、寿命があるまでは必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするのかというのが、我々、仏教者のメインテーマだと思う。 仏教は安心立命を説くわけではない 希望というものは持つものではなく、絶望の中でひらめくものではありませんか。 持てる希望なんて所詮、一時的な質入れにしかならない。本当の希望というのは、絶望させることができる力のこと。その意味で、親鸞の「自然法爾」と、キリストの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は、ほとんど一緒だと思う。 クオリアのことを考えていたときに思ったのですが、例えば、明るさというのは相対的なもので、部屋の照明が明るく見えるのは周囲が暗いからで、昼間だったらそこまで明るさを感じませんよね。希望の光とか言うけど、周りが暗いから明るく見えるわけで、そういう意味では、底知れぬ暗闇つまり絶望を知っている人じゃないと希望の光りは見えない。 最初から希望と絶望が区別されているわけではなくて、親鸞は選択の余地なく絶望する。そこには戦略も何もない。そして、それがどんどん深くなっていくわけです。 でも生きているから絶望できるのであって、絶望の底で何かをひらめく。これを仮に希望と呼ぶことができるのではないですか。 「蓮を咲かせる泥になりたい」 南 先ほども言ったけど、中学生で「諸行無常」という言葉に出会ったとき、「あ、 助かった」と思ったんです。助けてほしいと思っていたわけじゃないけど、これを言った人と俺は似たような人間かもしれないと、嬉しかったというか本当に助かった。まさに思ってもいなかった光だったんです。今にして思えば青臭いけど、その当時はとても切実な、生きるか死ぬかの問題でしたからね。しかし人は余儀なく絶望したとき、その絶望に耐え切ったときに何かと運命的に出会うことがある

Posted by ブクログ

2023/08/01
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

生の最初から思い通りにはなっていない。思い通りにならないから辛いんです。ですが、人類は全て最初から思い通りに生まれた人はいない、と言うことをもっと自覚すべきでしょうね 人間が考え方を変えるには、生き方を変えるしかない。人間は、頭で自分の考えを切り替える事は、ほぼできないんですね。生活を変えない限り絶対にダメだと思います。根本的には変わらない

Posted by ブクログ

2018/10/14

脳科学者の茂木健一郎と、禅僧の南直哉が、3回にわたっておこなった対談を収録しています。 南の語る内容は、彼のこれまでの著作と同様、彼自身の解する仏教の立場からまっすぐに届けられてきますが、これにたいする茂木の発言は、脳科学者の立場からなされているものとはいいがたいように感じます...

脳科学者の茂木健一郎と、禅僧の南直哉が、3回にわたっておこなった対談を収録しています。 南の語る内容は、彼のこれまでの著作と同様、彼自身の解する仏教の立場からまっすぐに届けられてきますが、これにたいする茂木の発言は、脳科学者の立場からなされているものとはいいがたいように感じます。ある意味では、南のことばをうまく引き出す役割を果たしているといえるかと思うのですが、「脳科学者と禅僧の問答」というサブタイトルを裏切ってしまっています。 あるいは、もはや科学者ではない、一人の人間としての茂木の姿を見ることができるところにおもしろさを感じる読者もいるかもしれません。

Posted by ブクログ