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私はどうして私なのか 分析哲学による自我論入門 岩波現代文庫 学術208
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2009/01/16 |
JAN | 9784006002084 |
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私はどうして私なのか
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商品レビュー
3.7
3件のお客様レビュー
分析哲学の本は、読んでいるうちに何でこんな議論をしているのかわからなくなることが多いので、自我論にテーマを絞ったものならそういうこともないだろうと思って読んでみた。それでも途中、集中力を失い同じ議論を繰り返しているようにしか見えないところもあったが、前半の「指示対象」と「意義(セ...
分析哲学の本は、読んでいるうちに何でこんな議論をしているのかわからなくなることが多いので、自我論にテーマを絞ったものならそういうこともないだろうと思って読んでみた。それでも途中、集中力を失い同じ議論を繰り返しているようにしか見えないところもあったが、前半の「指示対象」と「意義(センス)」後半の「私」と「内なる自分」の議論はおもしろくて、何とか最後まで読めた。もう何冊か分析哲学の入門書とかを読んだ上でもう一度読むといいかなと思った。
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かつてデカルトは、自己意識を考察するにあたって他者の視点を考慮する必要はないと考えた。こうした発想を著者は批判する。 幼児が鏡像を前にしてそれが自己の姿だと認識するとき、いったい何が起こっているのだろうか。そこでは、自分には直接見ることのできない自分の姿が他者によって見られうる...
かつてデカルトは、自己意識を考察するにあたって他者の視点を考慮する必要はないと考えた。こうした発想を著者は批判する。 幼児が鏡像を前にしてそれが自己の姿だと認識するとき、いったい何が起こっているのだろうか。そこでは、自分には直接見ることのできない自分の姿が他者によって見られうるということが理解されているはずだ。そうだとすると、自己意識は、他者によって意識されるということと切り離せないことになる。また、幼児が自分を指す名前があるということを理解し、それを用いて自分の状態・意図を語るとき、彼は自分の発言によって一定のコミットメントを負うことになる。つまり、「自分がいる」ということは、「人の間にいる」ということを含意しているのである。 こうした議論を踏まえた上で、著者は指標語「私」の分析を開始する。「私」という語を用いる人は、だれもが「私」を中心にしたパースペクティヴを持っており、私にとっての「ここ」が相手にとっての「そこ」であることを理解できなければならない。そして、このことが「私はいま、ここにいる」という命題の理解の内実なのであって、そこでは一人称的な特別な事実などは存在していないと考えられることになる。それでも依然として、さまざまな客観的な事実に加えて、「私が大庭健である」という偶然的な事実が存在するように思われることは否定できないが、著者によれば、大庭健という人物とは独立に「内なる自己」が存在するというのは、語の意義と指示対象の取り違えにすぎない。 最後に著者は、「私は……と思っている」というときに何が生じているのかと問いかける。ここには、自分の思考についての思考、メタ・レヴェルの思考が生じており、それぞれ異なった主体による思考が考えられているように思える。だが、「いったい私は……のことをどう思っているのだろう?」と自問するときなど、私が自己の心理状態に注意を向けるときに生じているのは、「どう考えるべきか、どういう態度をとるべきか?」という実践的な配慮である。それは、私が自己の行為について責任を持つ存在であり、「人の間」で一定のコミットメントを負っているということを意味しているのであり、自己の行為について思考するメタ・レヴェルの自己が独立して存在するということにはならないのである。 「私」についての分析哲学的な観点からの議論が展開されているが、テクニカル・タームはほとんど使用されず、また著者の饒舌も本書ではかなり抑えられていることもあって、比較的読みやすいと思う。
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私がいる、私は他人にどう観られているのか。 自分では見えないけれども、自分は見えるものとしてある。存在する。
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