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禅とは何か 角川ソフィア文庫
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禅とは何か 角川ソフィア文庫

鈴木大拙【著】

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 角川学芸出版/角川グループパブリッシング
発売年月日 2008/12/25
JAN 9784044076023

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商品レビュー

3.5

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2025/06/25

思惟の垢を脱ぎ捨て、無の深淵に臨むための書。 [思考の彼岸に立つ禅の本質] 『禅とは何か』は、単なる宗教哲学の解説ではない。 そこにあるのは、知の光をもってしても射し込むことのできぬ暗黒の核、すなわち「禅」の本源に迫らんとする、鈴木大拙の精神の跳躍である。 私が禅と出会った時の...

思惟の垢を脱ぎ捨て、無の深淵に臨むための書。 [思考の彼岸に立つ禅の本質] 『禅とは何か』は、単なる宗教哲学の解説ではない。 そこにあるのは、知の光をもってしても射し込むことのできぬ暗黒の核、すなわち「禅」の本源に迫らんとする、鈴木大拙の精神の跳躍である。 私が禅と出会った時の衝撃は、今でも忘れがたいほど記憶に刻まれている一方、その本質を掴むことは誠に難しい。 禅とは何か。 それは言語をもって定義されるものではない。 それは、沈黙の中に閃き、日常の行為の中に突如として姿を現す。 禅は「無心」であり、「空」である。 だがその「無」は、空虚を意味するのではなく、むしろ、万象を孕んだ創造の母胎である。 剣道の一太刀に、俳句の一音に、茶の湯の一滴に、禅は潜み、そこに生命の根源たる直感が凝縮する。 鈴木大拙は、東洋の深奥を西洋の冷厳なる理性に対置しつつ、彼岸の知を開示するのである。 [鈴木大拙という人間ーー静謐なる叛逆者] 1870年、加賀の城下町・金沢に生まれた鈴木大拙は、その生涯を禅の「無」を西洋世界へ伝えることに捧げた。 青年期に鎌倉の円覚寺にて釈宗演の膝下に参禅し、後にアメリカに渡ってケーラスと親交を結ぶ。 仏教をして生きた宗教たり得せしめるのは、知識ではない。 体験であり、沈黙である。 大拙は終生、この信念を貫いた。 彼は学者でありながら学者を超え、翻訳者でありながら霊的導師でもあった。 その言葉は、英語で書かれてさえも日本の山河の気韻をまとい、異国の精神に風穴を開けた。 大拙は、語る者ではなく、語らずして伝える者であった。 そこにこそ彼の異様なまでの魅力がある。 [大拙が影響を受けた人物――思想の種火をともした者たち] ■釈宗演(1860〜1919) 大拙の精神を鍛え上げたのは、円覚寺の峻厳なる禅僧・釈宗演であった。 思想ではなく生のあり方を以て、彼に「坐り、沈黙し、ただ在ること」の重みを教えた。 ■ポール・ケーラス(1852〜1919) 洋の東西を結ばんとする志を持ったドイツ系アメリカ人の哲学者ケーラスは、大拙に西洋的表現の鋳型を授けた。 その思想的器がなければ、大拙は世界的な「声」を持ち得なかったであろう。 ■井上円了(1858〜1919) 理性の剣で東洋思想の幽明を斬り開こうとした哲人であり東洋大学の設立者。 大拙にとっては、思考と直観の拮抗を教える教師であった。 [大拙が与えた影響――言葉の枠組みを破壊した者] ■アラン・ワッツ(1915〜1973) 禅をロンドンの霧の中からカリフォルニアの陽光へと導いた伝道者。 大拙の思想に触れ、彼は理性の殻を脱ぎ捨て、精神の裸体を求めた。 ■ジョン・ケージ(1912〜1992) 沈黙という音楽の可能性を開いたアメリカ人の作曲家。 大拙の禅的無に触れ、「音なき音楽」の創造へと踏み出した。 ■ジャック・ケルアック(1922〜1969) アメリカ文学の反逆児的小説家であり詩人。 『路上』の疾走の中に、大拙の禅的瞬間が閃く。 彼にとって大拙は、精神のアナーキストであった。 [西田幾多郎との関係ーー無をめぐる魂の交歓] 大拙と西田幾多郎ーー彼らは同じ年、同じ石川の土に生を受け、異なる道から同じ深淵を覗き込んだ兄弟である。 西田は「場所の論理」において、存在の根底に「絶対無」を据えた。 大拙はそれを、禅の「空」として生きた。 両者は常に対話し、交わらずして深く通じた。 西田が「善の研究」で語る「純粋経験」は、大拙の直感的悟りと同根である。 それは「考える私」を越えた「無の場所」にほかならない。 西田の哲学は、大拙にとって禅を思惟の形式に昇華させたものであった。 かくして、思想と宗教、哲学と実践という分断された知の大地に橋がかけられたのである。 [無の裡にひらく真の自己] 鈴木大拙の禅は、沈黙の哲学である。 言葉は常に裏切り、概念は常に遅れる。 だがその裂け目から、しばしば真の「自己」が顔を覗かせる。 『禅とは何か』は、そのような自己を呼び覚ますための一書である。 読者がこの書を手に取る時、知を越えた感応の刹那が訪れるであろう。 それは、現代という煩悩の海を渡る者にとって、ほとんど奇蹟に近い灯火である。

Posted by ブクログ

2024/11/27

『禅とは何か』は、禅を世界に広く紹介した第一人者である鈴木大拙が、禅の本質について、東洋と西洋の思考様式の違いを踏まえながら解説した重要な著作です。この本は、禅を単なる仏教の一派として説明するのではなく、人間の意識や経験の本質に関わる普遍的な真理として描き出そうとしています。 ...

『禅とは何か』は、禅を世界に広く紹介した第一人者である鈴木大拙が、禅の本質について、東洋と西洋の思考様式の違いを踏まえながら解説した重要な著作です。この本は、禅を単なる仏教の一派として説明するのではなく、人間の意識や経験の本質に関わる普遍的な真理として描き出そうとしています。 鈴木の議論の特徴は、禅の経験を知的な理解と実践的な体験の両面から照らし出そうとする姿勢にあります。禅では一般に「不立文字」(文字や言葉に頼らない)が強調されますが、鈴木は逆説的にも、言葉を通じて言葉を超えた経験を指し示そうとします。例えば、「悟り」という経験について、鈴木は「急に底が抜ける」という日常的な比喩を用いて説明を試みる。 それは、知的な理解と直接的な体験の間の橋渡しをしようとする試みといえる。 本書で特に重要なのは、西洋的な二元論的思考と禅的な非二元的経験との対比。 西洋の思考では、主観と客観、精神と物質、自己と世界といった二元的な区別が基本となる。 しかし禅の立場からすれば、これらの区別は便宜的なものに過ぎず、真の実在はそのような区別以前の直接的な経験の中にあるとされる。 鈴木は、この違いをさまざまな具体例を通じて説明する。 たとえば、鈴木は禅の芸術観についても独自の解釈を示する。 日本の水墨画や俳句において、対象をありのままに捉えようとする姿勢は、主客の分離を前提とする西洋的な芸術観とは異なる。 画家や詩人は、対象と一体となる経験の中から創造を行う。このような芸術表現は、禅的な経験のあり方を具体的に示すものとして理解される。 また、本書では「即非の論理」という禅独特の思考方法についても詳しい説明がなされる。 「AはAであるがゆえに、Aではない」という一見矛盾した表現は、通常の論理を超えた真理を指し示そうとする試みで、鈴木は、このような表現が単なる論理的矛盾ではなく、より深い実在の理解への手がかりとなることを説明する。 鈴木の分析で特に印象的なのは、禅の経験を現代的な文脈のなかで解釈しようとする姿勢。 たとえば、現代人が感じる実存的な不安や疎外感といった問題に対して、禅がどのような示唆を与えうるのかを考察する。 それは、禅を単なる伝統的な宗教実践としてではなく、現代における人間の精神的な課題への応答として理解しようとする試みであるといえる。 本書の現代的な意義は、科学技術の発達やグローバル化が進むなかで、人間の経験や意識の本質を問い直す視座を提供している点にある。 特に、論理的思考や言語的理解の限界を指摘しながら、より直接的な経験の可能性を示唆する鈴木の考察は、現代においてますます重要性を増しているように思える。 鈴木の文体は、難解な禅の概念を、できるだけ分かりやすく説明しようとする努力に特徴がある。 それは、東洋と西洋の思考の架け橋を築こうとする彼の基本的な姿勢の表れともいえる。 この本は、禅に関心を持つ読者はもちろん、人間の意識や経験の本質について考えたい人にとっても、重要な示唆を与えてくれる。 それは、東洋と西洋の思考の架け橋を築こうとする彼の基本的な姿勢の表れともいえ、禅に関心を持つ読者はもちろん、人間の意識や経験の本質について考えたい人にとっても、重要な示唆を与えてくれる。

Posted by ブクログ

2023/03/23

禅ってニーチェの考えに近いかも??他力本願ではなく、自分で苦難を乗り越えなければならないというのが教えだから。 ここから思ったのが、資本主義って案外悪くないのでは?自分の苦悩を乗り越えた部の結果がお金であるという考え方を持てるかもしれない。マックス・ウェーバーもプロテスタンティズ...

禅ってニーチェの考えに近いかも??他力本願ではなく、自分で苦難を乗り越えなければならないというのが教えだから。 ここから思ったのが、資本主義って案外悪くないのでは?自分の苦悩を乗り越えた部の結果がお金であるという考え方を持てるかもしれない。マックス・ウェーバーもプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の中で言っているぽいけど、めっちゃ働くというある種の禁欲主義的発想なのでは? 宗教はその人・時代に合わせて柔軟に合わせる必要がある。←仏の教えは変わらないけど、それを受け取る人々の差はある。いわゆる原理主義というものは意味がないとみていいのではないか?(これはさまざまなことに言えると思う)→ツァラトゥストラの中でも言われているけど、生み増やすのではなく生み高めるということなのかもしれない。 理屈も大事だし、神秘性も大事、そしてモノをそのまま見る力全てが必要。 苦しみが多いほど、そしてその苦しみが大きい(?)ほどよいみたいな感じだけれど、以前weekly Ochiai で羽生さんが「良い人生とは後悔の多さだ」と言っているのはまさしくこれじゃないか?

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