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田辺哲学と京都学派 認識と生
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 昭和堂 |
発売年月日 | 2008/07/15 |
JAN | 9784812208281 |
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田辺哲学と京都学派
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田辺元の思想が中心的に取り上げられているが、第5章と第6章では、それぞれ西田幾多郎、西谷啓治の思想についても触れられている。 著者は「序章」で、デカルトからニーチェに至るまで、西洋哲学は「認識と生」という大問題をめぐって動いてきたと述べる。そして、他の誰よりもこのことを自覚的に...
田辺元の思想が中心的に取り上げられているが、第5章と第6章では、それぞれ西田幾多郎、西谷啓治の思想についても触れられている。 著者は「序章」で、デカルトからニーチェに至るまで、西洋哲学は「認識と生」という大問題をめぐって動いてきたと述べる。そして、他の誰よりもこのことを自覚的に哲学の原理に据えようとしたのがヘーゲルだった。『精神現象学』では、意識のたどる経験に対して、「われわれにとって」(für uns)という「絶対知」の視点が付け加えられる。つまり、概念の自己展開は「生の自己凝視」によって導かれるとされているのである。この「絶対知」の視点は、意識の経験を外から照らし出すスポット・ライトではなく、生の終局に視点を取って現在を見なおそうとする「末期の眼」だと著者はいう。 さて、こうした「認識と生」の問題を、「行為的自覚」という観点から捉えなおしたのが、田辺元だった。田辺は西田の「絶対無」が、宗教的体験という「生」からの発出論に陥っていることを批判し、「認識」の立場と「生」の立場の「絶対媒介」を説く。この絶対媒介の役割を担うことになるのが、即今における行為である。田辺によれば、絶対無の自覚は全体を直観することによってではなく、現在の行為の瞬間に微分的に成立する。 こうした田辺の基本的発想は、いわゆる「種の論理」から『懺悔道としての哲学』を経て、晩年の『マラルメ覚書』に至る彼の思索の歩みの中でいっそう深められていった。『懺悔道としての哲学』では、「哲学そのものを、懺悔の行を通じて他力信仰的に建直」すことがめざされた。田辺は「懺悔道」をMetanoetik、すなわち「超‐理観」(Meta-Noetik)と言い表している。「行」が「生」の直観を破り、哲学の立場が自己を突破することによって、「死復活」の転換がもたらされる。これは、理性の自己吟味としてのカント哲学の自己突破だと考えられている。すなわち、理性の立場はけっして合理化できない偶然性に向き合うことを余儀なくされ、みずからの無力に直面することで、かえって「超理性的理性の行」の立場に出るとされている。こうして著者は、田辺哲学を、理性を超えた「行」の立場に、認識と生の媒介を見ようとした、「行為的自覚」の哲学と規定することができると論じている。
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