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僕が批評家になったわけ
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2005/05/20 |
JAN | 9784000271059 |
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『批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い』―『Ⅰ批評とは何か/2 僕が批評家になったわけ』 誤解される...
『批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い』―『Ⅰ批評とは何か/2 僕が批評家になったわけ』 誤解されることを恐れずに言うと、特に加藤典洋の書くものを好んで読んできた訳ではない。内田樹が、特に村上春樹の評価を取り上げる際によく引いている批評家という印象。なので著者がどのような経緯で批評家として経つに至ったかということに興味がある訳ではない。だが人が善しとするところに疑義を申し立てることを厭わない精神というものには興味がある。その精神活動の根っこには何があるのか。 その疑問に対する直接的な答えがある訳ではないが、随所に加藤の拠って立つ基準点のようなものは見え隠れする。特にそれがはっきりとした形で示されるのが、本書の最終盤に登場するスーザン・ソンタグの「美しい」と「面白い」との対立に関する言動に対する一考であるが、そこに集約されているように加藤典洋の視線は常に世間の水平線上にあるように思う。例えば村上春樹の作品に対する「その筋の人達」の評価は分かれるようだけれど、蓮實重彦や松浦寿輝などが批判的であるのに対し加藤典洋はこれを評価する。その際、蓮實らが小説をいわば「定石」の視点から批評するのに対し、加藤の視点は「無」である自分に対してどのように響くか、ということに拘ったもののように聞こえる。その違いが冒頭に引いた一文にも表れていると思うし、ソンタグが『美しい』ではなく『面白い』という基準が氾濫する世間を嘆く言説に「待った」を掛ける姿勢にも表れていると思う。 そうは言いつつ、加藤の拠って立つ場所は実際には「本を一冊も読んでいな」くても辿り着ける場所ではないだろう。差し詰め、加藤の言わんとするところはデ・カルトの例の「コギト」のようなものだろうけれど、それは様々な他者の思考を渉猟して後見い出した、それらとは違う自分自身の思考(あるいは志向)というようなものではないだろうか。ゴータマ・シッダールタが王子として贅を極めた生活の後に全てを投げ出し出家し釈迦になったたように、あるいはジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネが裕福な家庭で育った後に世俗を離れアッシジのフランチェスコになったように、「無」に至るには「有」が対称として認識されなければならないのが世の常だから。 物事の本質を見極めようとする時、人は往々にして枝葉末節を取り払い理想形を想像している。それは謂わば形而上学的な世界にしか存在しないものだが、それが多くのことを説明(説得)し得る限り、人は満足する。よく引き合いに出される小話の、物理学者が勝ち馬を予測する際に脚の無い「球形の馬」を想定する話と通じるところがある。そんな馬は現実には居ない。批評家の活動が多くの先人たちの著作を網羅的に整理した基準世界に照らし合わせがちなことを、象牙の塔に閉じ篭りたくない加藤は善しとしなかったということなのだろう。養老孟司風に言うならば、「面白い」事象を「モノ(構造)」として捉えて分解して理屈を立てても、「面白い」は「コト(機能)」であって分解した途端意味を失ってしまう、と加藤は考えている、というところか。 『しかし、筆者は、「徒然草」のこういうところ、ふつうのことをふつうにいう、その先のことは、相手がわかるまで待っているという風情が、よいと思う。わからなければわからなくていい。いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。でもわからなくとも、そんなに大したことではないよ、とそれはいってくるのである』―『Ⅳ ことばの批評/1 批評のことばはなぜ重く難しいのか』 とは言え、加藤の思考は「判る」を前提していると強く感じる。「判る」の積み重ねの上に新しい思考が見えてくると信じている、と言い換えてもよい。そのことがよく解るのがⅣ章で取り上げられる養老孟司や内田樹の言説に対する加藤の批評だと思う。養老の自然観は禅宗に通じるものがあり半眼の教えに通じると思うけれど、この安易に還元主義的な理解に至らない(モノとコトを取り違えない)姿勢や、内田の判り易い言い方は難しい言い方(の本質)を縮減する読みであるとする姿勢に対して、加藤は理解を示しつつ疑義を唱える。そしてその自ら放った疑義を何とか自身の「理解」のフィールドへ降ろそうと試みる。その過程は非常にナイーヴでありかつ正直だ。再び誤解を恐れずに言うならば、本書は自身の立場を一から説明しようとするⅠ章からⅢ章までよりも、Ⅳ章「ことばの批評」とⅤ章「批評の未来」の方が加藤典洋という批評家を知る手掛かりが多いと思う。
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[ 内容 ] 批評に背を向けても、私たちは生きられる。 だが、もし批評がこの世になかったら、私たちの思考はいまよりもっと貧しいものになっていたのではないだろうか。 批評とは何か。 批評のことばはどこに生き、この世界とどのように切り結んでいるのか。 批評という営みが私たちの生にもつ...
[ 内容 ] 批評に背を向けても、私たちは生きられる。 だが、もし批評がこの世になかったら、私たちの思考はいまよりもっと貧しいものになっていたのではないだろうか。 批評とは何か。 批評のことばはどこに生き、この世界とどのように切り結んでいるのか。 批評という営みが私たちの生にもつ意味と可能性を、思考の原風景から明らかにする。 [ 目次 ] [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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文藝評論の入門書ってなにかないのかしらん、と、もうしばらく文藝評論をやっておる身としては不思議になって、この本しか出てこなかった。で、方々の図書館にあるので、とりあえずこの本が「文藝評論入門」でいいんだろうな、ということで読みはじめました。 「書評には基礎知識が要るのか否...
文藝評論の入門書ってなにかないのかしらん、と、もうしばらく文藝評論をやっておる身としては不思議になって、この本しか出てこなかった。で、方々の図書館にあるので、とりあえずこの本が「文藝評論入門」でいいんだろうな、ということで読みはじめました。 「書評には基礎知識が要るのか否か」という問題が、すなはち文藝評論というジャンルをマイノリティにしている大きな問題でして、本書の中において作者は「文芸批評とは、それぞれの知識に関係なくわたりえある知のゲームだ」と書いております。ここは本当にそうなのよね。ちょっと詳しい人に聴くと「記号論は通過してなきゃいけない」とか「ポストモダンは一通り読んだの?」だのとまず、聞かれてしまう。んだけれども、もっと各人の「実感」に即したレベルでの話題が繰り広げられないと、どんどんと文藝そのものへの敷居が高くなるばっかりでね。そもそも「記号論」ソシュールから読んだとしても、わかりゃあせんのです。それはアタシが馬鹿だからかもしれない。が、実感の伴わない話を情報として知っていてなんの役に立つのんか。 地動説、だからなにさ。せいぜい知っていても「説明がつく」というだけで「納得がいく」というわけではない。この辺は本書の中で小林秀雄の「人間の建築」なんかを引いて説明してあったけれども。 えー、本書、たしかに「文藝評論入門」ですが、筆者にとっては100%中身が理解できるものではありませんでした。しかしながら、そういう「前提の知識を必要とする」文藝評論という現場を目の当たりにして、踏み込んでいく契機としてはいい本だったのではないかと思います。 この本をもーっと噛み砕けないものかな。 もちっとスキルがついたら、そういう試みもしてみたいところです。
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