僕が批評家になったわけ の商品レビュー
『批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い』―『Ⅰ批評とは何か/2 僕が批評家になったわけ』 誤解される...
『批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い』―『Ⅰ批評とは何か/2 僕が批評家になったわけ』 誤解されることを恐れずに言うと、特に加藤典洋の書くものを好んで読んできた訳ではない。内田樹が、特に村上春樹の評価を取り上げる際によく引いている批評家という印象。なので著者がどのような経緯で批評家として経つに至ったかということに興味がある訳ではない。だが人が善しとするところに疑義を申し立てることを厭わない精神というものには興味がある。その精神活動の根っこには何があるのか。 その疑問に対する直接的な答えがある訳ではないが、随所に加藤の拠って立つ基準点のようなものは見え隠れする。特にそれがはっきりとした形で示されるのが、本書の最終盤に登場するスーザン・ソンタグの「美しい」と「面白い」との対立に関する言動に対する一考であるが、そこに集約されているように加藤典洋の視線は常に世間の水平線上にあるように思う。例えば村上春樹の作品に対する「その筋の人達」の評価は分かれるようだけれど、蓮實重彦や松浦寿輝などが批判的であるのに対し加藤典洋はこれを評価する。その際、蓮實らが小説をいわば「定石」の視点から批評するのに対し、加藤の視点は「無」である自分に対してどのように響くか、ということに拘ったもののように聞こえる。その違いが冒頭に引いた一文にも表れていると思うし、ソンタグが『美しい』ではなく『面白い』という基準が氾濫する世間を嘆く言説に「待った」を掛ける姿勢にも表れていると思う。 そうは言いつつ、加藤の拠って立つ場所は実際には「本を一冊も読んでいな」くても辿り着ける場所ではないだろう。差し詰め、加藤の言わんとするところはデ・カルトの例の「コギト」のようなものだろうけれど、それは様々な他者の思考を渉猟して後見い出した、それらとは違う自分自身の思考(あるいは志向)というようなものではないだろうか。ゴータマ・シッダールタが王子として贅を極めた生活の後に全てを投げ出し出家し釈迦になったたように、あるいはジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネが裕福な家庭で育った後に世俗を離れアッシジのフランチェスコになったように、「無」に至るには「有」が対称として認識されなければならないのが世の常だから。 物事の本質を見極めようとする時、人は往々にして枝葉末節を取り払い理想形を想像している。それは謂わば形而上学的な世界にしか存在しないものだが、それが多くのことを説明(説得)し得る限り、人は満足する。よく引き合いに出される小話の、物理学者が勝ち馬を予測する際に脚の無い「球形の馬」を想定する話と通じるところがある。そんな馬は現実には居ない。批評家の活動が多くの先人たちの著作を網羅的に整理した基準世界に照らし合わせがちなことを、象牙の塔に閉じ篭りたくない加藤は善しとしなかったということなのだろう。養老孟司風に言うならば、「面白い」事象を「モノ(構造)」として捉えて分解して理屈を立てても、「面白い」は「コト(機能)」であって分解した途端意味を失ってしまう、と加藤は考えている、というところか。 『しかし、筆者は、「徒然草」のこういうところ、ふつうのことをふつうにいう、その先のことは、相手がわかるまで待っているという風情が、よいと思う。わからなければわからなくていい。いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。でもわからなくとも、そんなに大したことではないよ、とそれはいってくるのである』―『Ⅳ ことばの批評/1 批評のことばはなぜ重く難しいのか』 とは言え、加藤の思考は「判る」を前提していると強く感じる。「判る」の積み重ねの上に新しい思考が見えてくると信じている、と言い換えてもよい。そのことがよく解るのがⅣ章で取り上げられる養老孟司や内田樹の言説に対する加藤の批評だと思う。養老の自然観は禅宗に通じるものがあり半眼の教えに通じると思うけれど、この安易に還元主義的な理解に至らない(モノとコトを取り違えない)姿勢や、内田の判り易い言い方は難しい言い方(の本質)を縮減する読みであるとする姿勢に対して、加藤は理解を示しつつ疑義を唱える。そしてその自ら放った疑義を何とか自身の「理解」のフィールドへ降ろそうと試みる。その過程は非常にナイーヴでありかつ正直だ。再び誤解を恐れずに言うならば、本書は自身の立場を一から説明しようとするⅠ章からⅢ章までよりも、Ⅳ章「ことばの批評」とⅤ章「批評の未来」の方が加藤典洋という批評家を知る手掛かりが多いと思う。
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[ 内容 ] 批評に背を向けても、私たちは生きられる。 だが、もし批評がこの世になかったら、私たちの思考はいまよりもっと貧しいものになっていたのではないだろうか。 批評とは何か。 批評のことばはどこに生き、この世界とどのように切り結んでいるのか。 批評という営みが私たちの生にもつ...
[ 内容 ] 批評に背を向けても、私たちは生きられる。 だが、もし批評がこの世になかったら、私たちの思考はいまよりもっと貧しいものになっていたのではないだろうか。 批評とは何か。 批評のことばはどこに生き、この世界とどのように切り結んでいるのか。 批評という営みが私たちの生にもつ意味と可能性を、思考の原風景から明らかにする。 [ 目次 ] [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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文藝評論の入門書ってなにかないのかしらん、と、もうしばらく文藝評論をやっておる身としては不思議になって、この本しか出てこなかった。で、方々の図書館にあるので、とりあえずこの本が「文藝評論入門」でいいんだろうな、ということで読みはじめました。 「書評には基礎知識が要るのか否...
文藝評論の入門書ってなにかないのかしらん、と、もうしばらく文藝評論をやっておる身としては不思議になって、この本しか出てこなかった。で、方々の図書館にあるので、とりあえずこの本が「文藝評論入門」でいいんだろうな、ということで読みはじめました。 「書評には基礎知識が要るのか否か」という問題が、すなはち文藝評論というジャンルをマイノリティにしている大きな問題でして、本書の中において作者は「文芸批評とは、それぞれの知識に関係なくわたりえある知のゲームだ」と書いております。ここは本当にそうなのよね。ちょっと詳しい人に聴くと「記号論は通過してなきゃいけない」とか「ポストモダンは一通り読んだの?」だのとまず、聞かれてしまう。んだけれども、もっと各人の「実感」に即したレベルでの話題が繰り広げられないと、どんどんと文藝そのものへの敷居が高くなるばっかりでね。そもそも「記号論」ソシュールから読んだとしても、わかりゃあせんのです。それはアタシが馬鹿だからかもしれない。が、実感の伴わない話を情報として知っていてなんの役に立つのんか。 地動説、だからなにさ。せいぜい知っていても「説明がつく」というだけで「納得がいく」というわけではない。この辺は本書の中で小林秀雄の「人間の建築」なんかを引いて説明してあったけれども。 えー、本書、たしかに「文藝評論入門」ですが、筆者にとっては100%中身が理解できるものではありませんでした。しかしながら、そういう「前提の知識を必要とする」文藝評論という現場を目の当たりにして、踏み込んでいく契機としてはいい本だったのではないかと思います。 この本をもーっと噛み砕けないものかな。 もちっとスキルがついたら、そういう試みもしてみたいところです。
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「批評が何か、そんなことは知らない。しかし、お前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に百冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。...
「批評が何か、そんなことは知らない。しかし、お前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に百冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の百冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ。だからすばらしい。」 小林秀雄が現代風の話し方で書いたような威勢のいい啖呵だ。こうした断言口調には何かしら人を納得させてしまおうとする書き手の熱っぽさを感じてしまう。だから、書かれていることの検証などそっちのけで、うん。そうだ。そうだ。などと相づちを打ってしまいそうになる。ところが、書き手が加藤典洋だと、そうは簡単にいかない。なぜか、この人の書くものには、いつも判断停止を誘うようなところがあるのだ。 それはどういうことかというと、加藤には加藤の言いたいことがある。それは、よく分かる。よく分かるのだが、そのために説明しだすと、うん、ちょっと待てよ、話はそう簡単にはいかないだろうと思わされることがよくある。自分ではよく分かっていることを説明するときにおきがちな誤解だ。 知らない人に道を教えるときは、曲がり角や分かれ道に特に注意する。それと同じように論理がそこで新たな展開に入るときにはあらかじめいろんな道のあることを説明してくれるとありがたい。人によっては書いている人と同じように思わない人だっている。だから、あなたはこう思うかも知れない。でもね、これはこういうことでしょ、という一言がほしいのだ。たとえば、こういうところ。ここで網に喩えられているのは「批評」である。 「その魚をとるのに、どんな深海までもぐらなければならなかったとしても、どんなに高度な網が必要だったとしても、魚は魚。誰もが食べたら、おいしいか、まずいか分かる。子供が食べても、おじいさんが食べても。」 ちょっと、待ってほしい。子どもの時はおいしくなかったものが、大人になってから食べてみるとおいしかった、などという経験は誰にだってある。まして、年寄りになったらなおのことだ。年齢によって、おいしいと思うものはちがうだろう。また、ところが変われば、おいしいと思う食べ物はちがうこともある。イカやタコを食べない文化圏に育った人には、あの味は分からない。 その魚がうまいか、まずいか、うまいとしたら、なぜうまいのか、味わう側の味覚の方も問題にしてもらわないと話が見えてこない。現に加藤自身、別のところで、同じ批評でも読まれる世代によって受けとめ方にちがいが出ることを書いている。「ことばのために」というシリーズ中の一冊である。初学者のために敷居を低くしておきたいという気持ちがあるのはよくわかるが、簡単に書くことがかえってわかりにくくするということもある。裾野を広げたはいいが、山頂に行き着けないようでは困るのだ。 随筆の代表選手のように考えられている『徒然草』を批評の原型として持ち出し、批評というものの範囲や、評論とのちがいについて考えさせている点、やさしい言葉と難しいことばで書かれる批評のちがいはなぜ起きるのか、インターネットが内田樹のように難しいことをやさしい言葉で書ける批評家を生んだという指摘等々、考えさせられるものを多く含んだ本である。比喩の用い方にはもう一工夫ほしいと思うが、「批評とは何か」を考える上で読んで損はないと思う。
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率直な感想としては、よみやすくて面白くてためになったなぁ、ということ。 読みづらいところもあるにはあるけれど、 こうして批評・評論めいたことを書きたいなと思わせるほど、 自分にとって批評や評論に対する、ある種の「うさんくささ」の正体を教えてくれた気がする。 そう、俺にとっていつも評論や批評は、「ためになるけどうさんくさかった」。 ほんとうになんだろう、頭でっかちのおじさん・おばさんの言葉って比喩がぴったりなのだ。 学問的な裏付けがあるかって言うとそうでもないし、かなり直観や印象でもの言うし、 いきなりよくわからん図表とか書いて「これこれのことをこう呼ぼう」って概念創るし、 なんか知らないけど「えらそう」で「訳知り顔」で「文句ばかりいってる」。 これが、高校時代に読んだ教科書の中の評論や、新書のなかの批評家・評論家たちのイメージ。 その印象はこの本読むまで、けっこう変わってなかった。 でも、学問も知らず、知識もなくても、徒手空拳で何かについてなにかしら考えて、 語りあうことが出来るゲームが、批評だし評論なんじゃないの、と。 加藤さんは(俺が読み取ったものだけれど)この本でそう述べていると思う。 この背景にはおそらく、本書中にもいくらか出てくるけど、 やはり竹田先生の哲学観や批評観の影響があるような気がする。 その影響関係も交えて、自分なりに哲学と批評というゲームのルールを分類するなら、 思考や認識、世界観や価値観といった、「ことの本質」についてゼロから考えるのが哲学ゲーム、 文学や建築、釣りでも人付き合いでも、「ものの本質」についてゼロから考えるのが批評・評論ゲームなのかなぁと。 前者はだから「考えるとは何か」、「価値とは何か」と抽象的なことについて考えていくけれど、 後者は「文学においてリアルとは何か」「釣りの良さは何か」と「ものの本質」について考える。 そう考えると、戦後から現代まで連綿と続く批評の考え方が、 いわゆる「物自体」の「表象」を考え続けているのは腑に落ちる。 そこには確かな「もの」が無ければいけないのだろう、思考の宛先としての。 だからこそ評論の裾野は広いのだ、特定の「もの」に関心がある人であれば集まってくる。 それゆえに批評はうさんくさくなる。「もの」を語るから当然それはひとつの仮説に留まる。 しかも科学的な実証性や再現可能性を追求しないとなれば、これはもう「もの」から乖離するのも必然だ。 それでも、これでいいのだと、加藤さんは背中を押す。 難しくなければ語れない「もの」もあるし、自分なりに言い換えれば、 難しいものとことばが好きな人たちのQoL(生活の質)の問題なのである。 誰かの権利を侵害していない限り、そのようなものやことばを好きな人たちの権利を侵害する権利は誰にもない。 と思う。 つらつら書いてきてしまったけれど、とくに面白かったのは、最後の「批評の未来」の章。 二階と一階と地下室のアナロジーで、学問と批評の対立を見事に乗り越えている。 もしくは理論と実践、思想と実生活、個人と世間の対立。 ニヒリスティックな地下室もアカデミックな二階も経験した後で、一階の世間的な生活に戻ること。 そのなかで、地下室で見えた風景や二階から見えた風景をわすれずに、一階の人に語ることの大事さ、難しさ。 正直、これは自分の理想型だな、と感じた。 それでもやっぱり、批評や評論のうさんくささはどうにかしたいけれど、 こうした生活の闇も理想も実際も忘れぬ在り方で、俺は批評をしたいし、学問をしたいと思う。
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批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い。(p.13) 対談というのは話した内容をことばにする段階でまず...
批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い。(p.13) 対談というのは話した内容をことばにする段階でまず速記者の採録ないしまとめがあり、つぎに編集部のまとめ、その後対談者自身の校正と続き、ずいぶんと手が入る。でも、そういう気合が誰の目にも明らかなとき、それは動かない。誰にも手をつけさせない。最後まで、消えないものなのだ。(p.46)
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以下のページで感想書いてます。 http://blog.livedoor.jp/subekaraku/archives/50212650.html ほかのページでもたくさん。
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