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竹内好セレクション(2) アジアへの/からのまなざし
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竹内好セレクション(2) アジアへの/からのまなざし

竹内好【著】, 丸川哲史, 鈴木将久【編】

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竹内好セレクション(2) アジアへの/からのまなざし

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 日本経済評論社/日本経済評論社
発売年月日 2006/12/05
JAN 9784818819061

竹内好セレクション(2)

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2008/04/17

「日本外交史」のイントロ「アジア主義」思想の起源を見るために読んだ。明治知識人のアジア主義を多く取り上げている。しかし、多くの場合彼の視点から論じているため、偏りがある。例えば、宮崎トウテンを玄洋社などのアジア主義と同列に扱うことに対しては、読んでいても疑問がある。日本民族の覚醒...

「日本外交史」のイントロ「アジア主義」思想の起源を見るために読んだ。明治知識人のアジア主義を多く取り上げている。しかし、多くの場合彼の視点から論じているため、偏りがある。例えば、宮崎トウテンを玄洋社などのアジア主義と同列に扱うことに対しては、読んでいても疑問がある。日本民族の覚醒を主張し反共で鳴らした彼ならでは、であるが、社会主義・アナーキズムなどのアジア主義の視点が欠如している。本来宮崎はこちらと親和性があるのだ。まぁ評論家だから仕方ないのかもしれない。読者に疑問を植え付ける、という点で一読の価値はあると思う。

Posted by ブクログ

2007/07/03

『セレクション』刊行の動機については、ふたりの編者が「はじめに」で端的に記している。丸川哲史氏は「中国での「反日」デモに際し、日本の中国研究者が何ら有効な現代中国論を提示し得なかった事態」を危機ととらえ、細分化・集積化された中国研究では克服できないような「何か」が、竹内の中にはあ...

『セレクション』刊行の動機については、ふたりの編者が「はじめに」で端的に記している。丸川哲史氏は「中国での「反日」デモに際し、日本の中国研究者が何ら有効な現代中国論を提示し得なかった事態」を危機ととらえ、細分化・集積化された中国研究では克服できないような「何か」が、竹内の中にはあるのではないか」とし、鈴木将久氏は「否応なくアジアと向き合うことが求められる時代と なったとき、そうした思想実践を行った数少ない思想家の一人として竹内好が浮上してくる」と述べている。近年の竹内好再評価の機運は、日本が中国や朝鮮、アジアとの関係を問われているという時代認識、外的条件に加えて、中国人研究者・孫歌氏による竹内の「再発見」(『竹内好という問い』二〇〇五年,岩波書 店)が最大のきっかけとしてあることは間違いないだろう。(前田年昭「歴史をかきかえるということはどういうことか 竹内好没後三〇年・日中戦争七〇年に際して」『東方』第314号(2007年4月,東方書店)掲載) 引用が長くなったが、『竹内好セレクション』がこのような背景を以てして編纂されたという事実を抑えることは、本書を読み、理解する以上に、またはそれと同等に重要であると私は考える。竹内好没後30年の今年はまた日中戦争70年でもあり、そういう数奇な時勢において同書にめぐり合えたことは私にとって全く幸運としか言いようがない。前置きが冗長になってしまった事をお詫びして、本書の書評に入りたいと思う。 同書は序文「方法としてのアジア」に始まり、「? 魯迅」、「? 中国の近代と日本の近代」、「? 日本のアジア主義」、「? 講和の原点」と4編に大別されて編集されている。またこの各編の小節「二年間」から朝鮮への問題意識を示唆した「おもかげの消えぬ人」までの配列は竹内好が時代と共にどのように思想形成をなしたかの歩みでもある。 竹内が本書の中で一貫して主張している一個の嘆きは、小節「近代とは何か」に顕著に示されている。即ち、現実と不調和になるや、進歩という名の下に観念・原理を捨て、新しい別の何かを求め続けてきた日本人の「ドレイの勤勉さ」である。勤勉であるが故に育った「優等生文化」は「遅れた人民=東洋諸国を指導してやるのが自分たちの使命」であるという「アジア主義」の根幹思想を生み出した。竹内は日本の「アジア主義」を「ドレイの主人になることでドレイから脱却しようとした」と非難し、その主体性の欠如を嘆く。また、対称的に抵抗することで「革命として失敗」することで真の革命と相成った辛亥革命と、与えられぬ環境の中で形成され、ダラクを拒否した「魯迅」という奇蹟に大きな憧憬を抱いている。 ここで竹内の言う「アジア主義」とは、「有る実質内容を備えた、客観的に限定できる思想ではなくて、一つの傾向性」である。竹内のアジア主義主観は小節「日本のアジア主義」に詳しい。「アジア主義」は明治初期にその萌芽を見るも、竹内はこれを「近代国家の形成と不可分な膨張主義」として、戦時の「大東亜共栄圏」とは峻別している。そして前者において生み出されていった、アジアに対する対等な同属意識たるべき思想=連帯の意識を抽出し、その救済を試みている。それがステレオタイプなアジア主義の保護=アジア太平洋戦争の主戦論者という狭い見識で捕らえられる範疇からは域を脱していることは、今更述する必要もないだろう。玄洋社、黒竜会の多面性、軍部により悪用された樽井藤吉の『大東合邦論』、岡倉天心の「アジアは一つ」の本意、「友を隣邦に求めて東洋の空気を一新することで祖国の改進を庶幾せん」と欲した宮崎滔天の再評価など、十把一絡げにされた「アジア主義」をひとつひとつ丁寧にほぐして再検討する姿勢は、過去の集積としての現在に対する認識の転換の為に非常に有為である。残念なのは、こうしたアジア主義が全て侵略主義のチャネルに流れ込んでゆく過程が大きく省かれていることで、私は竹内がこの点をどう捉えているか大変気になる。 順序が前後するが、序文にある「方法としてのアジア」とは、魯迅やタゴールの思想を例にとった、アジアを鏡にした日本批判であり、日本人の歴史認識、日本社会のドレイ精神に対する痛烈な批判である。竹内の仕事は、「否応なくアジアと向き合うことが求められる時代」である現代において再び大きな意味を持つと私は考える。15冊目。

Posted by ブクログ

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