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二〇世紀精神病理学史 病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面 ちくま学芸文庫
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 筑摩書房/筑摩書房 |
| 発売年月日 | 2005/01/10 |
| JAN | 9784480088925 |
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二〇世紀精神病理学史
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精神病理学は精神と疾患を区別するが、従来のように問題を疾患へと限定するのではなく、精神をも問題にしなければならない。 精神病理学には〈力としての歴史〉への分析が欠けている。〈力としての歴史〉とは、起きたことの記録・羅列である「歴史」と区別される概念で、アクチュアリティを支える。「...
精神病理学は精神と疾患を区別するが、従来のように問題を疾患へと限定するのではなく、精神をも問題にしなければならない。 精神病理学には〈力としての歴史〉への分析が欠けている。〈力としての歴史〉とは、起きたことの記録・羅列である「歴史」と区別される概念で、アクチュアリティを支える。「人間が歴史をつくる」ではなく「歴史が人間をつくる」の「歴史」 フェアシュティーゲンハイト=思い上がりとしばしば訳されるが、むしろ、もっと中立的なある種の上昇と捉えておきたい。反対は頽落。 人間は〈自然生命直接的祝祭性〉から〈力としての歴史〉によって間接化されていたのだが、その歴史が〈個的生命体の群れ〉によって圧殺されてしまった。〈自然生命直接的祝祭性〉も姿を隠し、われわれは〈個的生命体の群れ〉として二重に間接化され取り残されてしまった。これに対抗しても〈歴史不在の想起〉はあくまで失敗に終り、フェアシュティーゲンハイトに留まる。「過剰な主体性に呪縛されて「思い上がって」しまったわれわれ野蛮な「ひと」は〈力としての歴史〉に所有される謙虚な受動的感受性と完璧に切り離されてしまっているからだ。」(p264) 〈自然生命直接的祝祭性〉にまつわる狂気を直接性(あるいはイントラ・フェストゥム)と、〈力としての歴史〉にまつわる狂気を間接性(あるいはアンテ・フェストゥム)と言い換えられる。この直接性・間接性の双方において病まねばならなくさせてしまう「浮力」を問題にしなければいけない。 方向性としては、分裂病だけでなく癇癪こそ問題にしなければならない。そして、〈個的生命体の群れ〉を「死者と生者の祝祭的共同体」である〈われわれ〉に置換することで、歴史と自然生命の両方の「重力」で「浮力」に対抗していく必要がある。 大ざっぱにいうとこんな論旨。時代精神全体の病みを何とか問題にしようとする恐ろしく壮大な試み。批判する足場すら確保するのが大変な論だから、逆に生半可な(平板な)論理で反論するのも不適切であろう。続けて追いたいところ。
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分裂病中心主義の、精神病理学史に疑問を投げかける一著である。恐らく、マルクス主義的な思考にいくらか囚われている著者であるが、著者からすればそれは偏見となるのだろう。そもそも、どうにも個人的には、「歴史」という捉え方がつまらなく感じられる。やはりそれは「特別な存在としての自分」とい...
分裂病中心主義の、精神病理学史に疑問を投げかける一著である。恐らく、マルクス主義的な思考にいくらか囚われている著者であるが、著者からすればそれは偏見となるのだろう。そもそも、どうにも個人的には、「歴史」という捉え方がつまらなく感じられる。やはりそれは「特別な存在としての自分」というものを打ち消すことになるからだろう。つまるところ著者は哲学者ではなく、彼は、精神病理学者であり思想家のようなものなのだ。だから、彼の理論はまるで精緻さがない。もう少し言えば、哲学者は緻密な思考作業を行うのだけれども、そうでない人はいきなり枠を当てはめたりする。また、全体を俯瞰しようとする。要するに、相対化の枠組みと言うかね、そういうことをしようとする。木村風に言えば、ポストフェストゥム的であり、彼的に言えば、「力としての歴史」に身を委ねているわけである。要するに、彼が言いたいのは、人間には二つの欲求がある。一つは、自らを「主体化」していくものであり、もう一つは自らを「客体化」していくものである。唯一絶対的な自分と、大多数の、それも歴史の中の一幕の存在でしかない自分と。この両者の均衡がとれていれば人間は「健康的」な状態でいられる。この均衡こそが、ビンスワンガーが言う現存在が均衡をとれている、という状態である。ちなみにハイデガーの「頽落」というのは、「力としての歴史」に身を委ねられている状況のことであり、著者はなので、「世俗性への着地」とでも、言い方を還るべきだと不快感を露としている。個人的には、「頽落」でいいと思うのだけれども。 そして、著者曰く我々は「時代の病」に罹っている。それは、我々が「力としての歴史」に見放されてしまった、という点である。だから、我々は力としての歴史がないままただ「頽落」してしまっている、「個体の群れ」となってしまっている。我々は「個性」やら「主体性」やらを求めるけれども、それは一つの社会的な動きとなっていて、実態としては個性やら主体性やらが求められているだけで確率は出来ていない。我々は群れているだけだ。そして、群れることの出来なかった孤独なものが分裂病になる。しかし、どちらも、「力としての歴史」を喪ってしまっている。我々は、「思い上がる≒フェアシュティーゲンハイト」している。では、どうすれば路が拓けるのか?我々を客観化することで、「超主観的≒主体化を超えた恍惚的忘我の境地」に直面することを防いでくれるはずの、「力としての歴史」はもういない。しかし、「自然生命的な力」も、もはや、我々には見えてこない。我々の双眸はすっかりと曇ってしまっている。そして、その先にいる祝祭性≒癲癇、オーガスム的な光りへと到達せんとする意志の残骸みたいなものだけが残っている。我々はどこへと向かうのか?といった形で本著は締めくくられている。 とりあえず、本著の欠陥として「歴史」という概念を中心に据えようとしている点である。そのせいで、「時代の病」という言い方を用いざるを得ず、「大衆論=思想」と化してしまっている。これでは、あまりにも軸がぶれすぎる。個体について述べたいのか、それとも個体の群れについて述べたいのか。著者はこの両者の出現を「力としての歴史の喪失」と同じ原因に帰着させようとしているのだが、この両者を一緒に括ることはかなり乱雑である。著者自身も、それは違うと述べているのだけれども、「時代の病」に帰してしまう以上、そこから逃れられなくなる。おまけに、何をどうすればいいのかがまるでわからないところで終わってしまっている。解決を得るために、著者は非哲学的な思考を展開したのではなかったのか?後は著者の中にある、五者関係がうまく整理されていない。「個体・個体の群れ・力としての歴史・祝祭性・自然生命的な力」の、この五つである。そもそも、分裂病が、祝祭性へ近づこうとする営みの中で発生するものであり、万が一到達した際が、癲癇やオーガスムであると考えればつじつまが合うのでそう解釈したが著者の中でもいまいち整理し切れていないような気がする。ただ、非常に優しい一冊だと思われる。大衆に大衆であることを赦しながらも、その思いあがりをやめなさい、と著者は言いたいのだろうから。つまるところ、「大衆でしかない人間が、個性やら主体性やらを求めすぎている」ことに警句を発しているのだ。
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