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吉本隆明が語る戦後55年(11) 詩的創造の世界
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吉本隆明が語る戦後55年(11) 詩的創造の世界

吉本隆明(著者), 吉本隆明研究会(編者)

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商品詳細

内容紹介 内容:詩的創造の世界
販売会社/発売会社 三交社/
発売年月日 2003/07/10
JAN 9784879192110

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2022/10/18
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「関係論」-<うつ>という<関係>へ  -2008.08.03記 あらゆる枝葉を排除したあとで、人間の現存性を支えている根拠は<わたしは-身体として-いま-ここにある>という心的な把握である。この把握は感性的であっても知覚的であっても、悟性的な識知であってもさしつかえない。 この場合<わたし>は、さまざまな度合の自己識知であり、それが<身体>に関連づけられている。この自己識知に、<身体>がことさら介入されてこない場合でも、自己識知の根源としての<身体>は、無意識の前提になっている。<いま>は現在性の時間的な云いまわしであり、<ここに>は空間的な云いまわしである。 この場合もっとも問題なのは<ある>という概念である。この<ある>という概念は、ふたつの否定的な態様をとりうるだろう。 ひとつは、実在性の次元で身体が、客観的に<ある>にもかかわらず<ある>と感じられない-識知されないことがありうるということである。もうひとつは、<ある>にもかかわらず<ない>という否定的な志向性に決定的に支配されることがありうることである。 例3の「身体に精神が入っていないという漠然とした感じ」とか、例10の「自分が自分のような気がしません」というのが前者の否定性にあたっている。また<うつ>病の不安や罪責感や自殺念慮は、後者の否定的な志向性に決定づけられているように思われる。 「身体に精神が入っていないという漠然とした感じ」や「自分が自分のような気がしません」という訴えは、すべての妄想知覚や類似の症候に共通なもので<うつ>病に固有なものといいがたいだろう。そこで、後者の<ある>にもかかわらず<ない>という否定的な志向性が萌している不可避的な状態が問題となる。 ビンスワーガーのいうように<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性の根源に対して、<ない>という否定的な志向性が、時間の構成の仕方の失敗あるいは障害によって解きうるものとすれば、この否定は、<わたしは-身体として-いま-ここに-ない>という表現によって表象されるだろう。 しかし<いま-ここに-ない>ものが、<いま-ここに-ある>ということを否定的に志向したりすることは、矛盾としか云いようがない。そこでこの否定的な志向は<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>-<ない>という時間的-空間的な<自己了解づけ>と<自己関係づけ>の総体にたいする否定的な志向となるほかないだろう。 これは自然過程の否定として「自然現象」に属するだろうか? わたしには、そう思えない。 <わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性の識知は、その次元を自己の<身体>にたいする自己の<自己了解づけ>と<自己関係づけ>の位相においている。これは、「自然現象」でもなく「観念現象」でもなく、いわば、自然-観念現象に基づいている。 自然-観念現象の次元に、人間の人間的存在の次元があらわれる。そこでは人間は生物だけでもなければ、観念だけの幽霊でもない。この自然-観念現象の次元で<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性にたいする否定的な志向性は、現存性の<自己了解づけ>、いいかえれば時間的な志向性の否定と、<自己関連づけ>、いいかえれば現存性の空間的な志向性の否定とを包括せざるをえない。 <わたしは-身体として-いま-ここに-ない>ではなく、<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>-<ない>とあらわされるような、総体にかかる<ない>の志向である。これは、もっともふさわしい形では、<自己了解づけ>の正常な逆立と、<自己関連づけ>の縮小や消滅によって記述的に表象される状態のようにみなされる。 そして<自己了解づけ>の正常な逆立は、<過去>へ逆行しながら<原過去>へではなく、<過去>へ逆行しながら<現-現存性>へという時間的な構成によって、もっともよく表象されるように思われる。 これとともに<自己関連づけ>の縮小や消滅は、<自己を自己として受け入れる>ことの縮小や消滅であるために、現存性の占める空間的な意識は縮小または消滅する。 なぜそうなるのか? それを問うことは、あらためて、べつの次元からなされなければならない。

Posted by ブクログ

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