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続・寺山修司詩集 現代詩文庫105
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続・寺山修司詩集 現代詩文庫105

寺山修司【著】

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続・寺山修司詩集 現代詩文庫105

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 思潮社/
発売年月日 1992/10/01
JAN 9784783708728

続・寺山修司詩集

¥825

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2010/06/05

ヒットラーは気の弱い芸術家志望からいつのまにか政治家志望に転進したのではなかった。彼は自分が表現者であることをやめて、そのかわりワグナーの楽劇を、より大きな構想の下に行為の次元で体験したのだ。彼は恐らく楽譜や歌手という代理現実の世界を飛び越えて、クビゼックと自分との共有の感動を、...

ヒットラーは気の弱い芸術家志望からいつのまにか政治家志望に転進したのではなかった。彼は自分が表現者であることをやめて、そのかわりワグナーの楽劇を、より大きな構想の下に行為の次元で体験したのだ。彼は恐らく楽譜や歌手という代理現実の世界を飛び越えて、クビゼックと自分との共有の感動を、歴史という途方もないステージで再現しようとしたのだろう。ヒットラーはその意味ではもっとも純粋な芸術亜出あり、それゆえにもっとも反社会的な人物だったのだ。 活字は時間性をもった感動を、一つの突間に定着させてしまうが、しかし定着させ終わったといにはそれはもう詩ではなくなっている、ということにまず気づくべきである。本来的には、活字の発明はマスでコミュニケートするための便宜さのためになされたものであったし、たしかにその意味では多くの成果を収めてきた。 行為としての詩(Action-Poem)は一回性に支えられている。くりかえすために記録をとり、活字にのせて、その状況に参加しなかった者たちに配布させることは無意味である。 少なくとも詩では事柄を叙すべきではないし、叙事詩と短篇小説とは、一見詩に非常に接近してみえながら実は全く違うものなのだ。形而上学的な記号的体験(先にあげた)を除くと、より高次な記号的体験である演劇の感動でさえ、詩とは全くべつのものであることを知らねばならない。 最後に一つだけ補足しておきたいことがある。 それは行為と実践とのちがいである。詩人もまた他の文学者たちと同じように行為者であるべきだが実践してはならない。たとえば本気でデモの効果を真二、テロを信じ、世直しのための実践活動家になってはいけないのである。 歴史を変えていくのは革命的実践者たちの側ではなく、むしろくやしさに唇をかんでいる行為者たちの側にあるのだから。

Posted by ブクログ

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