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限界芸術論 ちくま学芸文庫
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限界芸術論 ちくま学芸文庫

鶴見俊輔(著者)

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限界芸術論 ちくま学芸文庫

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 筑摩書房
発売年月日 1999/11/10
JAN 9784480085252

限界芸術論

¥935

商品レビュー

3.8

11件のお客様レビュー

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2025/10/17

著者はまず純粋芸術と大衆芸術を区別しています。芸術家が専門家や好事家のために作る純粋芸術。芸術家や企業が大衆のために作る大衆芸術。そしてこれとは別に、非専門家が作って非専門家が楽しむ、生活の発展の中にあるような限界芸術というものが本書のキーワードとなります。 著者はそれを柳田國...

著者はまず純粋芸術と大衆芸術を区別しています。芸術家が専門家や好事家のために作る純粋芸術。芸術家や企業が大衆のために作る大衆芸術。そしてこれとは別に、非専門家が作って非専門家が楽しむ、生活の発展の中にあるような限界芸術というものが本書のキーワードとなります。 著者はそれを柳田國男の民俗学や柳宗悦の民芸批評から抽出していますが、さしあたってここではこの限界芸術というものが著者にとっては純粋芸術や大衆芸術のさらに起源にある、原芸術として捉えていることが重要なのではないでしょうか。 現代的な芸術区分をさらに超えていくもの、本当に人々が回帰していくべき理念としての限界芸術という美学上の意義から範囲を広げているのが一点。またこの限界芸術という考え方で民衆の生活史の中にある美や文化を捉えることができるという研究上の意義も持っているように思えます。 各論となる大衆芸術論ではその視点から新聞小説や漫才、カルタなどに現れた生活人、民衆の知恵や思索の形を描いていて、それぞれエッセイとして楽しめました。著者の文章は研究者、学者的な硬さがなく批評家として、趣味人としてセンスと見識が豊かであるところが読んでいて面白いですな。 一方で惜しいのは先に大衆芸術論と書いたように、著者が各論として分析しているのは実はその大半が限界芸術ではなく大衆芸術なのです。また、巻頭論文でも限界芸術の事例に民謡が多く挙げられていて著者の時代から見ても現代的な限界芸術ではなく、ノスタルジックな民衆美の中の限界芸術が多いところはまだ書かれた時代が古かったことの方法論的な制約でしょう。 著者が強くシンパシーを持ちこれ自体単独の人物評伝として読み応えのある黒岩涙香や宮沢賢治に関する文章も、限界芸術や大衆芸術の中から洞察を抽出し血肉を持って思想化しようとした芸術家たちのスケッチであるところにそれは現れています。つまりこれは民衆の歴史の中の知恵と創造性の蓄積からより普遍的な思想を再発見したいという著者の祈りの反映に他なりません。 もちろんこれは些細な欠点であり本書の射程の広さを損なうものではありません。むしろ現代においてこそ限界芸術概念は妥当性を強く持つものです。SNSにおける人々のユーモアの交流やインターネット上におけるアマチュア創作の大半はまさに非専門家が生活の中のわずかな時間に生み出す創造性の形と思われます。情報技術の発展による創作や機知への参入障壁の低下は私たちが日々の隙間の中でときどき、ほんの少し創造的になることをたやすくしてくれました。 しかしそれゆえに、ささやかな疑問として、著者の三芸術区分も揺さぶられる側面もあると思います。そもそも純粋芸術と大衆芸術の区分がもともと曖昧なのですが、限界芸術も資本主義と情報技術の発展が加速した今ではそのどちらかに容易に転化するものではないでしょうか? 例えば当初はアマチュア的にボカロ音楽を投稿していた好事家がプロとなったり、あるいは好きな作品の二次創作を作っていた人が公式側に拾われたりする、といったことは珍しいことではありません(ここではそもそもそれらが本当に限界芸術に該当のだろうか?という疑問は一旦おいておきます) そういう意味では現代とは民衆と創作の専門家、資本を簡単に分けられると思うのが難しいのかなあ、とも思いました。ガッツリ考えるべき課題を多く教えてくれるいい本でした。

Posted by ブクログ

2025/09/15

大半が1950から60年位に書かれた文化論 タイトルにもなっているが、芸術の発展として純粋芸術、大衆芸術、限界芸術と区分けしており、非常に鋭い視点を提示してくれる 大衆芸術について当時の様子なども窺えて興味深い

Posted by ブクログ

2025/03/06
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

 著者の本には、その死後、触れるようになった。  『思い出袋』(岩波新書)という2010年の著作で、最晩年の遺言のような一冊だった。  まだ、本書で2冊目。しかし、この本は半世紀以上も前の思想だ。ちょっと古いかな、という記述も多かった。  表題の「限界芸術」について、冒頭に語られる。 「今日の用語法で"芸術"とよばれている作品を『純粋芸術』とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を『大衆芸術』と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活の境界線にあたる作品を『限界芸術』と呼ぶことにして見よう」  「純粋」と「大衆」のさらに先(というか下というか)、いや、身近な生活に根ざした芸術を「限界芸術」とした。例えば「盆踊り」「盆栽」「家族アルバム」だと、巻末解説で四方田犬彦が述べている。家庭内での遊び、趣味の中にも、「限界芸術」はありそうだ。  たとえば、カルタ。 「官僚文化の経典として勅語があるように、庶民文化の経典として「いろはカルタ」がある。ここには世渡りのチエが、バラバラの形でおいてある。」  なるほどな。でも、昭和の時代は、多くの家庭で、いぬぼうカルタに慣れ親しんだろうが、今や、誰もやらないのではなかろうか?     漫才についての記述もある(漫才は、著者の分類だと大衆芸術に入る?) 「漫才の思想」と題して、漫才のやり取りをひとつ紹介し、 「まちがっては恥をかき、まちがっては恥をかき、たびかさなるうちに度胸ができ、しまいには、恥をかくことが快楽になってくる。ここに、漫才の力強い楽天性がある。恥の重みに耐えかねて自殺した太宰治、田中秀光の系列に代表される日本人の知識人とくらべるとき、漫才に代表される庶民的人間像は、解毒剤である。」と。  しったかぶったボケが、どんどんツッコまれて馬脚を露すというオチなのだが、いまや、そんなコテコテの漫才をするコンビはいまい。落語の登場人物、ご隠居さんが大家さんのキャラだ。  今、書店では漫才師の書籍が目に付く。石田明(NON STYLE)の漫才論や、せいや(霜降り明星)の半生をつづったもの等。昭和の時代と、考え方やアプローチが違うのか、機会があったら読んで、鶴見俊輔論と比較してみようかな。  日常生活や仕事の中から生まれてくる所作や様式を、「限界芸術」と捉え、それらの持つ機能や効用がわれわれの人生や社会にもたらす意味を考えるのは、なるほど面白い。単調な生活を豊かにしてくれるものに違いない。  つきつめれば、人生そのものが芸術に昇華される。それを体現したのが、宮沢賢治の生涯であったという考察には、なるほど、と唸らされる。  ただ、なにかと古い。  いや、古いけど、ある意味、普遍的か。当時の考え方、分析、考察をこうして読めるのが、本の良いところだ。読書も「限界芸術」かもしれない。

Posted by ブクログ