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波 ヴァージニア・ウルフコレクション
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | みすず書房 |
発売年月日 | 1999/10/05 |
JAN | 9784622045052 |
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波
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商品レビュー
5
4件のお客様レビュー
意味を明確に掴めない文章が目立ったけれど(私の読解力不足を口惜しく思う)、それらを含めてみずみずしく詩情に溢れたこの作品の言葉の全てを愛おしく思う。
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「わたしたちは、一瞬のあいだ、自分たちはなれなかったが、しかし忘れ難い完全なる人間の肉体が、私たちの間におかれているのを見た。わたしたちがなれたかも知れなかった一切を見た。捉えられなかった一切を。それで、一瞬、他の人がそれを取ろうとするのを拒もうとしたのだ。ケーキが。一つの、たっ...
「わたしたちは、一瞬のあいだ、自分たちはなれなかったが、しかし忘れ難い完全なる人間の肉体が、私たちの間におかれているのを見た。わたしたちがなれたかも知れなかった一切を見た。捉えられなかった一切を。それで、一瞬、他の人がそれを取ろうとするのを拒もうとしたのだ。ケーキが。一つの、たった一つのケーキが切られるとき、自分たちの分けまえが減っていくのを見ている子どもたちのように。」 幼少時に同じ時間を共有した男女各三人の人物がいる。六人は、それぞれの道を進むが、時に集まっては互いの目に映る自分を確認し合う。しかし、それはしばしば相手の人生に対する辛辣な批評を伴う。なぜなら、微妙に絡み合いながら、互いが互いの補完物であるように六人の人物は設定されているからだ。 仲間のうちで最も優秀な成績を誇りながら、オーストラリア訛りとブリスベインの銀行家の息子という出自を背負い、独り居を好み、優越感と劣等感に引き裂かれるルイスは、気の利いた句を聞かせては仲間の賞賛を勝ち取ることで自己確認をしていなければ自分を感じられないバーナードと。そして、「ぶら下がった電線か、毀れたベルの引き綱みたいな」バーナードはまた、たった一人だけを愛することを選択し、それ以外の他者を愛することができない「鋏ですぱっと切るような厳密な」ネヴィルと対照されてもいる。 田舎の自然の中に囲まれ、家庭を作り、子どもを育てることに固執し、何かを愛したらそのすべてを完全に自分のものにしなければ気がすまないスーザンは、都会に生き、人と人の間を蝶のように飛び交い、次から次へと相手を替えては男性遍歴を繰り返すジニイと。そして、「熱い炎のように踊る」ジニイはまた、他の五人のようにはっきりとした顔を持たず、いつも彼らを怖れ、こっそりと物陰に隠れながら砂漠に立つ柱を夢見、この世界以外に行くことを希求する「水の妖精ロウダ」の対照としてある。 読者は、六人の中に自分の似姿を何度か見るにちがいない。自分というのは何か。たとえば、火事で全身を焼かれ、包帯でぐるぐる巻きにされても、残る自意識は、それを自分と認識するだろう。たとえ、その現実に如何に違和を覚えようとも我々は、自意識というものからは逃れられない。ウルフが描きたかったのは、その最後に残る自意識に引きずられる「人間」の人生であった。 健康な人間は自分の体のことなど意識しない。そういう意味で言えば、始終自分について考えてばかりいる人間というのは、どこか病んでいるのかもしれない。この小説に登場する人物の中で健康といえるのは、他から語られるばかりで自らは一言も発しないパーシヴァルただ一人である。あとの六人は、いずれも自意識過剰という病に罹っているとしか思えない。 パーシヴァル(パルジファル)という名は聖杯伝説やワーグナーの楽劇で知られる騎士の名だが「清らかな愚者」という意味を持つ。完璧な存在であるパーシヴァルを崇拝しながらも、自意識故に自らの足りない部分に苛まれながら人生を歩み続ける六人は、一瞬ではあるが、六人の自我が融け合い完璧な存在と化す瞬間を所有する。それは至福に満ちたひと時だが、長くは続かない。 インドという異郷で若くして落馬事故で死ぬという伝説的な死を賜るパーシヴァルを除いて、彼らは長い人生を生きねばならないからだ。死による断絶はその完璧な至福に満ちた時を特権化するが、生きるということは、かつて所有した完璧な時間を憧憬しながら、衰えていく日々に耐え続けることである。これは『ダロウェイ夫人』にも見ることができるウルフ生涯の主題である。 小説は六人の人生の段階を示す九つの部分に別れている。各部の冒頭には夜明けから日没までの海辺の情景を表した散文詩が置かれている。寄せては返し、時に融け合い、時に砕け散る波の叙景は六人の人生を象徴する。冒頭部分にとどまらず、人物の独白は高揚するにつけ、ほとんど散文を逸脱し、詩に近づくように思える。ブルームズベリーグループの仲間で、ウルフのよき理解者でもあったフォースターがいみじくも評しているが、本質的には詩人であったウルフの最もウルフらしさに溢れた作品であるといえるだろう。
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段階的に挿入される自然描写をのぞき、本書は六人の男女が交互にかわす独白のみによって成り立っている。その台詞にしても、ゴダールの映画におけるそれのような曖昧さ。まるで薄暗い舞台の上に立つ詩人たちが、台詞の順番がまわってきたときだけ仄かなスポットライトを背にうけてささやく朗読劇のよ...
段階的に挿入される自然描写をのぞき、本書は六人の男女が交互にかわす独白のみによって成り立っている。その台詞にしても、ゴダールの映画におけるそれのような曖昧さ。まるで薄暗い舞台の上に立つ詩人たちが、台詞の順番がまわってきたときだけ仄かなスポットライトを背にうけてささやく朗読劇のよう。既成の意味をことごとく脱色され染めなおされた言葉のつらなりが、おびただしい量の詩的なイメージとして、読み手を溺れさせる意識の流れとなって、全編を通じてとめどなく放散していく。 ひもといてから最初の数十頁を繰るまでは正直困惑させられた。けれどそれでも読みすすめるうちに、『灯台へ』のラムジーの言葉をふと思いだす。「まあ、もう一度読まねばなるまいな。小説全体の形が思いだせないのだから、まだ判断保留としよう」。なるほど、ということはもし小説に形というものがあるなら、そしてこの『波』と題された作品を仮に小説と呼べるとすれば、この小説の形そのものが、打ち寄せては引き、退いてはまた砕けるひとうねりの波なのかもしれない。そう受けとめてからは理解の試みをいったん退け、かわりに六人の朗読者と同じように言葉の波に身をゆだねてみることにした。すると出来事や人物といった具体的なものの彼岸にある、言葉そのものの織りなす不思議なゆらめきのようなものに次第に洗われるような感覚になり、心地よい船酔いにはこばれるようにして、結局は最後の頁に漂着してしまった。 いざ読み終えてみれば、ここに書かれていることは実はとても普遍的でだれの身にも覚えがあるはずのものだと分かるのだけど(というのもこの作品は、生から死へと回帰する人間の一生のありようを、朝焼けから夕暮れにかけて移り変わる波打ち際の自然の一日にかさねて描いているだけだから)、その書かれ方が通常の(と私たちがつい感じてしまうような)表現方法とはきわめて異なっているために、ともすれば『ダロウェイ夫人』や『灯台へ』に魅いられた読者にとってさえ評価がわかれる作品かもしれない。それでも波のように不定ではかない言葉をもって綴られる意識の流れにはえも言われぬ美しさがたちこめている。わけても独白のあいまに挟まれる浜辺の情景は、息を呑むほどの透明な静けさと一瞬の躍動、凝縮された光と闇であふれていて、「キュー植物園」や『灯台へ』を経たウルフの描写力がついに到達した美の極致といえる。 最後に本書の原題について。ほとんどため息そのもののような読後感とともにあらためて最初の頁にもどると、そこに記されていた原題は"The Wave"ではなく"The Waves"と複数形だった。この作品の核は、名をもった複数の登場人物たちの意識の波が(人生の)夕闇のおとないとともに無名の全一なる意識の大海に合流していくというヴィジョンにあるが、それは原題の"The Waves"という複数形が同時に一つの単語でもある点に、実はすでに暗示されていたのだ。そのことに思い至ったとき、人生というたった一つの(ありふれているとさえいえる)テーマをめぐって作家が言葉のひとつひとつにこめたであろう並々ならぬ苦心と情熱をかいま見た気がし、眩暈のような驚きに打たれた。 ジニイの官能もスーザンの母性もバーナードの物語も、みな砕け散った。もちろん、いつか私も。本書の表面上のとりとめのなさは、だからそのまま私たち自身の生と精神の、飛沫のようなはかなさと呼応しているのだと思う。そして『波』を出版した十年後、作家その人もうたかたのごとく川の底に散った。
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