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北は山、南は湖、西は道、東は川
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 松籟社 |
発売年月日 | 2006/02/28 |
JAN | 9784879842381 |
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北は山、南は湖、西は道、東は川
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商品レビュー
2.3
3件のお客様レビュー
クラスナホルカイ・ラースローの邦訳されている唯一の作品で、『サタンタンゴ』を前に読まなければいけないと思ってた作品。 京都に訪れた源氏の孫君(というとても曖昧な存在)や犬、が出てくる他には、京都の風景や、歴史的事物をとにかく細かく、仔細に分析している。 「。」に辿り着くまでが長...
クラスナホルカイ・ラースローの邦訳されている唯一の作品で、『サタンタンゴ』を前に読まなければいけないと思ってた作品。 京都に訪れた源氏の孫君(というとても曖昧な存在)や犬、が出てくる他には、京都の風景や、歴史的事物をとにかく細かく、仔細に分析している。 「。」に辿り着くまでが長いもので、一体何が語られていたのかな、とちょっと分からなくなってしまうことがあるくらい。 読みやすさはないけれど、体験しがいのある作品、という点では達成感。もっとこの作品の良さが分かるようになりたいな、なんて思いました。
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源氏の孫がタイムスリップして京都の街を散策するだけの話。特に物語はなし。究極の雰囲気作品。特に主人公を設定する必要はなかったのではないでしょうか。作者の京都に対するすさまじい情熱だけは伝わりました。外国では高い評価を得ているようですが、読み物としてはハズしてると思います。まあ上品...
源氏の孫がタイムスリップして京都の街を散策するだけの話。特に物語はなし。究極の雰囲気作品。特に主人公を設定する必要はなかったのではないでしょうか。作者の京都に対するすさまじい情熱だけは伝わりました。外国では高い評価を得ているようですが、読み物としてはハズしてると思います。まあ上品が駄目な人は手に取らない方が賢明だと思います。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
作者はハンガリー人。ハンガリーの文学界では著名人で映画の脚本も書いているらしい。ちなみにハンガリー人の名前は日本人と同じで、姓・名の順に表記されるそうだ。それだからどうというわけもないけど親しみを覚えてしまう。 で、この小説だが、ハンガリー人がハンガリー語で書いているのに舞台は京都。登場人物も日本人である。そんな小説は今どきめずらしくもないと言われるかも知れない。どっこい、これは、少しちがう。ストーリーらしきものは確かにある。が、まるでそれがサイド・ストーリーのように読んでいて感じられる。 のっけから奇異に感じられるのは、冒頭に「2」とふられた章からはじまるからだ。ページは1とあるから落丁ではないと分かる仕組みになっている。「列車は線路の上ではなく一本の鋭い刃の上を走っていた。」という書き出しで、読者は現代の京都の町に誘導される。 福稲というから東福寺界隈と思しきあたりで京阪電車をおりた話者の眼には死んだように静まりかえった京都の町が映っているらしい。蓮実重彦の書く文章のようにきわめて息の長い文章が延々と綴られるに連れてまるでカメラを通して見つめているように、微細な風景が話者の心象風景を綯い交ぜるようにからめて語られてゆく。 一章自体は短いのだが、寺の境内の様子についてびっしり書き込まれた情景描写が終わると、新しい章が現れ、初めて主人公の名が明かされる。それが、源氏の孫君である。そうなのだ。この不思議な小説の主人公とはあの光源氏の孫なのである。 『名庭百選』という本に紹介されていた庭を探しに、供も連れず京阪電車に乗ってやってきたのだが、町は祭か災厄でもあったのか人っ子ひとりいず、案内人もないままに寺に入りこんでしまったところである。 叙述の体裁は断章形式で、時系列は操作されている。時折、誰もいない京阪電車の駅舎の情景を描いた章が挿入されるあたりは、まさにカットバック処理された映画を見ているような気分にさせられる。 寺を造るために、北は山、南は湖、西は道、東は川に囲まれた地を見つけるところからはじまり、吉野の山に生えた一本のヒノキを探すという、日本の寺の造営法から伽藍配置、一本のヒノキが宮大工の長年の経験によって山門のどの位置に使われるかといった蘊蓄がこれでもかというほど偏執狂的に記述される。 やがてそれは、主人公が探しながら見ることのかなわなかった秘密の庭の描写へと移るのだが、中国から風に乗って運ばれたヒノキの花粉が、運良く生きのびて、この寺のこの場所にまで来ることができたのかを例の蛞蝓が這い回った後に生じる燐光を帯びた航跡のような文体で延々描写される。 その合間合間に、孫君捜索の命を受けた背広にネクタイ姿の供の者たちが自販機のビールで酩酊するといったスラップスティックの場面を点綴しつつ、瀕死の犬やら、板壁に目玉の部分を釘で打ち付けられた十三匹の金魚だのというみょうに禍々しいオブジェを介し、持病の発作を癒すため一杯の水を探し求める主人公の探索行を物語るという、一筋縄ではいかない小説なのだ。 物語の展開があまりに奇想天外で状況が飲み込めないことから、読者はきわめて宙ぶらりんの状態で読むことを余儀なくさせられる。しかし、それでも謎にひかれるように読み進めていくと読むという作業自体は、次第に快楽の度合いを深めていくのであって、上質の読書体験が読者には約束されていると言えるだろう。 一つ落ち着かないのは、この独特の語彙とうねくるような文体がどこまで著者自身のもので、どこからが翻訳者の努力によるのだろうという点である。センテンスの長さは原著に合わせているのだろうが、寺社の建築、作庭に関する用語等は翻訳者の手柄だろうか。二度の半年ほどの京都滞在で自家薬籠中の物としたのなら、著者の見識を賞賛するしかないが。 最後の章のひとつ前で、場面はもとの京阪電車の駅舎に戻り、既視感に満ちた光景が描写され、物語は円環を閉じるように見えるのだが、列車の方向は初めとは反対の北を指し、京都の町でいましも起きようとする災厄を予言する禍々しい言葉が終わりの始まりを告げる。 こういう世界が好きな人にはたまらない作家だと思う。
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