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聞くこととしての歴史 歴史の感性とその構造
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聞くこととしての歴史 歴史の感性とその構造

大橋良介(著者)

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 名古屋大学出版会
発売年月日 2005/05/30
JAN 9784815805159

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2022/11/09

『聞くこととしての歴史』について「書い」ている。このことはどういうことだろうか、というようなことを考える。このような、ブクログ、というところに、書評をする、ということが、当たり前になっている現代だ。SNSというオンラインでの情報「発信」が個人から行うということが当たり前になってい...

『聞くこととしての歴史』について「書い」ている。このことはどういうことだろうか、というようなことを考える。このような、ブクログ、というところに、書評をする、ということが、当たり前になっている現代だ。SNSというオンラインでの情報「発信」が個人から行うということが当たり前になっている。情報は「受信」されるものではなくなってきた。現代は「情報過多」と言われる。その情報とは、受信が過多なのか、発信が過多なのか。おそらくその両方なのであり、その相互作用なのであろうか。フェイクニュースということが言われる。そのような雑多な問題意識を携えながら本書を読んでいる。 第一部を読み終えた。「歴史哲学の歴史」である。表題の通り、歴史哲学の歴史が、コンパクトにわかりやすく、まとめられている。たんにまとめられているのではなく、時にスリリングに、ときにラディカルに、大学で講義を受けているかのような、迫力をもって描かれる。 ①ヘロドトス、②アウグスティヌス、③カントか④らヘーゲル、そして⑤実証主義(ランケ)と分析哲学(⑥ダントーと⑦野家)と現象学(⑧フッサールと⑨ハイデッガー)という三つ転回が整理して論じられている。 ヘロドトスは歴史を複製形でもちいた。これは実際の出来事のそれぞれの物語を集めたもの、という意味でつかっていたからである。これがアリストテレスにおいて歴史と言う語が単数でもちいられる。つまり、それぞれの個別的な物語の集まりのなかの「法則的なもの」が見いだされる。この見方のことを「形而上学」という。古代ギリシャにおいて歴史の形而上学としての歴史哲学が発生したのだ。 「歴史の形而上学」というの 未完

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2016/11/16

これまで書において、表象されるものは「詩」だと思い、自作詩を題材とした書の制作を進めてきた。今になってもそれは間違っていないと思うし、やめようとは思わない。しかし「詩」というものが、自らの立脚する世界の更新の契機だとして捉えれば、歴史意識や歴史との接続もまた、「詩」だと言ってよい...

これまで書において、表象されるものは「詩」だと思い、自作詩を題材とした書の制作を進めてきた。今になってもそれは間違っていないと思うし、やめようとは思わない。しかし「詩」というものが、自らの立脚する世界の更新の契機だとして捉えれば、歴史意識や歴史との接続もまた、「詩」だと言ってよいように思う。ある歴史的な史実としてではなく、生きられた歴史として、今の自分の「中」にあるものとして、歴史を捉える契機。自分と距離のおいた「史実」としての歴史認識ではなく、その接続や相の上に自らの「いまーここ」を捉えなおす意味での歴史意識。それを現前させるのは、歴史的存在=市井の人々の語りだと思う。これらを書に作品化して行く方向を模索していきたい。その際に、集合的記憶が現代においては多層的なものになっていることを踏まえれば、やはり発表する「場所」というのは、非常に重要なファクターになってくるのだろうと思う。その場所、場所での「歴史」を掘り起こして、「現在時」を表象させる作品を制作したい。 私が何かの事実について【語る】とき、私はそれに先立ってこの事実に接しており、事実それ自身の語りに「聞き入」っているのではないだろうか 史料に聞き入るとは、史料のいかなる解釈にも先立っている。 聞くこととしての歴史がどういうものであるか。それは歴史の出来事がいかなる歴史解釈に先立って現前するときの、裸の歴史的事象のことである。 ------------------------------ 以下は別の論文のメモ アルバックスによれば、生きられた歴史は、何らかの痕跡によって体験され具体的に生きられているかのように感じさせる枠組みである。それゆえ、この枠組みは、過去が現在に連続しているという感覚を人々に抱かせる。 人はいかにして過去の実在性を実感するのか 歴史を読むだけでは、必ずしもある出来事が自分と連続したものとして想起されるとはかぎらない。それが有意味なものとして想起されるためには、、、、過去が現在と断絶したものではなく、現在にまで持続しているという自然な感覚を抱くことが大切 ★生きている歴史は複数である。なぜなら、すべての集合的記憶は空間においても時間においてもそのような集団がたくさんなるのにおうじて、集合的記憶もたくさんあるから →重要な指摘 生きている歴史もまた、つねに現在の視点から再構成された歴史にほかならない 歴史は、いまここにおいて制作されるもの

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2011/10/04

著者はかつて『悲の現象論』(創文社)の中で、ハイデガーおよび西田幾多郎を中心とする日本の哲学を受け継ぎつつ、歴史哲学を展開する必要を主張していたが、本書はその具体的展開である。また、野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店、岩波現代文庫)に対して、「語ること」のいっそう根底にある「聞く...

著者はかつて『悲の現象論』(創文社)の中で、ハイデガーおよび西田幾多郎を中心とする日本の哲学を受け継ぎつつ、歴史哲学を展開する必要を主張していたが、本書はその具体的展開である。また、野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店、岩波現代文庫)に対して、「語ること」のいっそう根底にある「聞くこと」の次元をさし示すことも、本書の主要モティーフの一つになっている。 野家は、オースティン以来の言語行為論に依拠して「物語り行為」を歴史記述の中心に置くことを主張した。これによって、歴史を単に現在の視点から記述された内容に切り縮めるのではなく、歴史について「物語る」という行為を生活世界における一つの行為とみなす立場を確立したということができるだろう。だが著者は、野家の考える歴史を「物語る」現場において、私たちはまず、歴史からの語りかけを聞き取ろうと耳を傾けているのではないかと問いかける。この「聞くこと」の成り立っている次元をめぐって、本書の考察は展開されることになる。 まず著者は、ハイデガーが『哲学への寄与論稿』で論じている「性起」(Ereignis)に手がかりを求める。「転回」以後のハイデガーの思索は、「性起の響きに聞き従う」ことに向けられている。しかもそうしたハイデガーの思索は、「存在の忘却」という歴史的なエポックの中で進められている。著者はここに、「聞くこと」としての歴史の重要な手がかりを見いだしている。 だが他方で著者は、ハイデガーが性起の声を「聞くこと」を「根本気分」とみなすにとどまっていたことを批判する。ここで注目されるのが、大乗仏教の「悲」(compassion)の概念だ。著者は西谷啓治の宗教哲学などを参照して、「悲」はハイデガーの「性起の響きに聞き従う」ことにも通じるような「根本気分」でありながら、同時に「智」であり一種の自覚を意味すると論じる。そして、このような「悲」こそが、著者のいう「聞くこと」としての歴史が成立する次元にほかならないことが明らかにされる。

Posted by ブクログ

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