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聞くこととしての歴史 の商品レビュー

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2022/11/09

『聞くこととしての歴史』について「書い」ている。このことはどういうことだろうか、というようなことを考える。このような、ブクログ、というところに、書評をする、ということが、当たり前になっている現代だ。SNSというオンラインでの情報「発信」が個人から行うということが当たり前になってい...

『聞くこととしての歴史』について「書い」ている。このことはどういうことだろうか、というようなことを考える。このような、ブクログ、というところに、書評をする、ということが、当たり前になっている現代だ。SNSというオンラインでの情報「発信」が個人から行うということが当たり前になっている。情報は「受信」されるものではなくなってきた。現代は「情報過多」と言われる。その情報とは、受信が過多なのか、発信が過多なのか。おそらくその両方なのであり、その相互作用なのであろうか。フェイクニュースということが言われる。そのような雑多な問題意識を携えながら本書を読んでいる。 第一部を読み終えた。「歴史哲学の歴史」である。表題の通り、歴史哲学の歴史が、コンパクトにわかりやすく、まとめられている。たんにまとめられているのではなく、時にスリリングに、ときにラディカルに、大学で講義を受けているかのような、迫力をもって描かれる。 ①ヘロドトス、②アウグスティヌス、③カントか④らヘーゲル、そして⑤実証主義(ランケ)と分析哲学(⑥ダントーと⑦野家)と現象学(⑧フッサールと⑨ハイデッガー)という三つ転回が整理して論じられている。 ヘロドトスは歴史を複製形でもちいた。これは実際の出来事のそれぞれの物語を集めたもの、という意味でつかっていたからである。これがアリストテレスにおいて歴史と言う語が単数でもちいられる。つまり、それぞれの個別的な物語の集まりのなかの「法則的なもの」が見いだされる。この見方のことを「形而上学」という。古代ギリシャにおいて歴史の形而上学としての歴史哲学が発生したのだ。 「歴史の形而上学」というの 未完

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2012/09/13

著者はかつて『悲の現象論』(創文社)の中で、ハイデガーおよび西田幾多郎を中心とする日本の哲学を受け継ぎつつ、歴史哲学を展開する必要を主張していたが、本書はその具体的展開である。また、野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店、岩波現代文庫)に対して、「語ること」のいっそう根底にある「聞く...

著者はかつて『悲の現象論』(創文社)の中で、ハイデガーおよび西田幾多郎を中心とする日本の哲学を受け継ぎつつ、歴史哲学を展開する必要を主張していたが、本書はその具体的展開である。また、野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店、岩波現代文庫)に対して、「語ること」のいっそう根底にある「聞くこと」の次元をさし示すことも、本書の主要モティーフの一つになっている。 野家は、オースティン以来の言語行為論に依拠して「物語り行為」を歴史記述の中心に置くことを主張した。これによって、歴史を単に現在の視点から記述された内容に切り縮めるのではなく、歴史について「物語る」という行為を生活世界における一つの行為とみなす立場を確立したということができるだろう。だが著者は、野家の考える歴史を「物語る」現場において、私たちはまず、歴史からの語りかけを聞き取ろうと耳を傾けているのではないかと問いかける。この「聞くこと」の成り立っている次元をめぐって、本書の考察は展開されることになる。 まず著者は、ハイデガーが『哲学への寄与論稿』で論じている「性起」(Ereignis)に手がかりを求める。「転回」以後のハイデガーの思索は、「性起の響きに聞き従う」ことに向けられている。しかもそうしたハイデガーの思索は、「存在の忘却」という歴史的なエポックの中で進められている。著者はここに、「聞くこと」としての歴史の重要な手がかりを見いだしている。 だが他方で著者は、ハイデガーが性起の声を「聞くこと」を「根本気分」とみなすにとどまっていたことを批判する。ここで注目されるのが、大乗仏教の「悲」(compassion)の概念だ。著者は西谷啓治の宗教哲学などを参照して、「悲」はハイデガーの「性起の響きに聞き従う」ことにも通じるような「根本気分」でありながら、同時に「智」であり一種の自覚を意味すると論じる。そして、このような「悲」こそが、著者のいう「聞くこと」としての歴史が成立する次元にほかならないことが明らかにされる。

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