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他者と死者 ラカンによるレヴィナス
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 海鳥社/ |
発売年月日 | 2004/10/20 |
JAN | 9784874154984 |
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他者と死者
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商品レビュー
4.1
9件のお客様レビュー
あの人が言ってた、あの本に書いてた言葉の意味がやっとわかったというあるある現象についての考察 p40 偉大なテクストが偉大であるのは、テクストに導かれて事実や経験に出会い、その事実や経験がテクストの真相を逆に照らし出すという相互作用のゆえではないだろうか。 つまり、私達の経験に...
あの人が言ってた、あの本に書いてた言葉の意味がやっとわかったというあるある現象についての考察 p40 偉大なテクストが偉大であるのは、テクストに導かれて事実や経験に出会い、その事実や経験がテクストの真相を逆に照らし出すという相互作用のゆえではないだろうか。 つまり、私達の経験には先立ってテキストがあり、 経験の後にも色褪せないテキスト、むしろ経験が従属するほどの深みがあるテキストが偉大なテクストであるということだ。
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2014年の読書メモより 内田先生の本を読むのは、これで二冊目。一冊目に読んだのは、『女は何を欲望するか』。二冊読んだ程度で、内田先生がいわんとしていることを理解できたとは思えないが、先生の書く本は役立つ。というのも、それらを読むことで、複雑な構造体を(内田式にならって)整...
2014年の読書メモより 内田先生の本を読むのは、これで二冊目。一冊目に読んだのは、『女は何を欲望するか』。二冊読んだ程度で、内田先生がいわんとしていることを理解できたとは思えないが、先生の書く本は役立つ。というのも、それらを読むことで、複雑な構造体を(内田式にならって)整理して把握することができるからである。それは、あくまで内田式なわけで、鵜呑みにするのはマズイ。けれど、良き導き手は、導き手自身が据えたゴール以上の場所に読者を運ぶ。良きコーチにバットのスイングの指導を受けてはじめて、自分のめざすスイングがみえるように。内田氏は、その良き導き手である。 内田式にならうと、自分自身が過去に経験した挫折が、なぜ挫折という形におわってしまったのかがわかる。「~とはなにか」という問いから前進すること、これは非常に難しい企てである。わたしは、これまで何度も、「~とはなにか」という問いから一歩外へ踏み出そうと試みてきた。けれど、いつも踏み出せ終い。この失敗の原因を内田式に照会すると、「~とはなにか」という問い以外に、わたしが世界を理解する糸口をもたないのは、わたし自身が「存在論の帝国」 において問いを発しているから、ということになる。 内田先生によれば、「存在論の帝国」には外部がない。なぜなら、ある/ないという二元性そのものが存在論だからである 。日本語だとわかりづらいが、「~とはなにか(Qu’est-ce que c’est ~?)」という問いは、「存在する(être)」という助動詞が使われている。問うているはずの「なにか」が、存在することをあてにして、「~とはなにか」と問うている。これでは、譫言のように同じ問いを繰り返すばかりで、わたしはいっこうに「なにか」へ近づくことができない。 内田先生は、この永劫回帰の議論に、ラカンとレヴィナスを登場させる。レヴィナスは、そう問うている「わたし」の存在をなぜ素朴に信じられるのか、と疑問を呈する。ラカンとレヴィナスの著作が難解であることは有名だが、なぜ彼らがよくわからないように書くのかを問題にする人は多くない。内田先生は、彼らのテクストのわかりえなさに共通点を見出す。 先生の分析によれば、ラカンもレヴィナスも、わざとわからないように書いている。ラカンの著書『エクリ』は、次のような文章からはじまる。 「われわれはこれまでの研究によって、反復脅迫(Wiederholungswang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l’insistance)と名づけ られたものの中に根拠をおいているのを知りました。」 「これまでの研究」とは、いったいなんのことなのか?書いているラカン自身は当然了解しているだろうが、熱狂的なラカニアンでもないかぎり、われわれ読者は知るはずもない。ラカンのはじめての論文集の第一文として、あまりに不親切だ。われわれ読者は、「それであなたはなにがいいたいのか?」とラカンに問わずにはいられない。 内田先生は、まさにこの点―『エクリ』の冒頭文を読んだ者が、「それであなたはなにがいいたいのか?」と問わずにはいられなくなること―がラカンのねらいであると指摘する。 さて、ラカンはなにを意図しているのか。つづきは本編にてぜひ。(と格好良くフェードアウトしてみましたが、つづきを書く体力がなくなりました。2017年も書き足せず。記憶も薄くなってきたので、2018年は再読したいです。悪しからず。)
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レヴィナス「知とは本質的に存在の手前に存在する一つの仕方である。それは出来事にかかわりあわないという権能を保持しながら、出来事に接近してゆく一つの様式である。主体とは無限後退の権能、つまり私たちに到来するものの背後に絶えず回り込む権能のことなのだ。」p98 「私は他我を同時に、この世界に対する主観として経験する。すなわちわたしは他我を、この世界、つまりわたし自身が経験するのと同一のこの世界を経験し、そのさいわたしをも、すなわち世界を経験しその世界の中において他我を経験するものとしてのわたしをも経験するものとして、経験する」フッサール『デカルト的省察』p102 ↓ 主観性とはそのつどすでに間主観性である。だから、間主観性が成り立つときには、他我が事実的に存在する必要さえないのである。フッサールの卓抜な比喩を借りるならば、世界の中の人間がペストで死滅して、私一人が残されても、それのよってもなお「世界が存在する」という私の確信は揺らぐことがない。p104 フッサールが「現象学的判断停止(エポケー)」と名づけた操作は、平たく言えば無意味に耐えることである。それは、既知に還元しえないような対象をじっと見つめ、なぜその対象は既知に還元しえないんのか...といった種類の問いを受け止めることである。フッサールは「エポケー」の原理的な前提を次のように示す。 「世界は不断に普遍的な感性的経験の明証の中でわれわれの眼前に与えられているが、しかしその感性的経験を、直ちに、必当然的明証として要求できないことは、明白である」p126 レヴィナス「『あなた』の顔が『私』をみつめている間も、『無限』はつねに『第三者』すなわち『彼』としてとどまっている。『無限』は『私』に影響を及ぼすけれど、『私』は『無限』を支配することができないし、『無限』の法外さを『ロゴス』の起源を通じて『引き受ける』こともできない。『無限』はそのようにして『私』に無起源的に影響を及ぼし、『私』のいかなる自由にも先行する絶対的受動性において、痕跡としてみずからを刻印し、この影響が励起する『他者に対する有責性』として顕現するのである かかる有責性の窮極の意味は、『私』を『自己』の絶対的受動性において、『他なるもの』の身代わりとなり、『他なるもの』の人質となるという事実そのものとして、また、この身代わりを通じて、単に別の仕方で存在するのではなく、『存在する努力』から解き放たれた、存在するとは別の仕方として思考することのうちに存する」Cf. 『存在するとは別の仕方で』p186 「幸福とはおのれの欲求を自足することであって、欲求を消滅させることではない。幸福は欲求が「満たされないこと」によって満たされるのである」p208 私がその場所を簒奪したことによって、「ここ」から闇へと追放され、光の中から退去したもの、そして、そのようにして私に「場所を譲った」ことによって、私のうちに癒しがたい有責感を残し、その有責感を介して私の自己同一性と善性を基礎づけたもの、それをレヴィナスは「他者」と名づけた。p261 驚くべきことだが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方」で聴き取ってしまった私自身なのである。p265
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