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徴候・記憶・外傷
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | みすず書房 |
発売年月日 | 2004/04/01 |
JAN | 9784622070740 |
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商品レビュー
4.4
8件のお客様レビュー
/まえがき /1 徴候 世界における索引と徴候 「世界における索引と徴候」について /2 記憶 発達的記憶論——外傷性記憶の位置づけを考えつつ /3 外傷 トラウマとその治療経験——外傷性障害私見 統合失調症とトラウマ 外傷神経症の発生とその治療の試み 外傷性記憶とその治療——一...
/まえがき /1 徴候 世界における索引と徴候 「世界における索引と徴候」について /2 記憶 発達的記憶論——外傷性記憶の位置づけを考えつつ /3 外傷 トラウマとその治療経験——外傷性障害私見 統合失調症とトラウマ 外傷神経症の発生とその治療の試み 外傷性記憶とその治療——一つの方針 /4 治療 医学・精神医学・精神療法は科学か 統合失調症の経過と看護 「統合失調症」についての個人的コメント /5 症例 統合失調症の精神療法——個人的な回顧と展望 高学歴初犯の二例 「踏み越え」について /6 身体 身体の多重性 「身体の多重性」をめぐる対談——鷲田清一とともに * /アジアの一精神科医からみたヨーロッパの魔女狩り /あとがき
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この本の恐るべき先見性がやっとわかってきた。 これは臨床的な症候論、治療論であると同時に記憶論、時間論でもある。ここに示されたモデルをつかって精神医学全体を一望することすら可能である。
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- ネタバレ
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-2006.05.03記 予感と徴候、余韻と索引- 生きるということは、「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すことだ、と「世界における索引と徴候について」という小論のなかで言っている。 「予感」と「徴候」は、ともにいまだ来たらぬ近-未来に関係している。それは一つの世界を開く鍵であるが、どのような世界であるかまだわかっていない。 思春期における身体的変化は、少年少女たちにとって単なる「記号」ではない。それは未知の世界の兆しであり予告である。しかし、はっきりと何かを「徴候」しているわけでもない。思春期の少年少女たちは身体全体が「予感」化する。「予感」は「徴候」よりも少しばかり自分自身の側に属しているのだ。 「余韻」と「索引」にも同様の関係がある。「索引」は一つの世界を開く鍵である。しかし、「余韻」は一つの世界であって、それをもたらしたものは、一度は経過したもの、すなわち過去に属するものである。が、しかし、主体にとってはもはや二義的なものでもある。 「予感」と「余韻」は、ともに共通感覚であり、ともに身体に近く、雰囲気的なものである。これに対し、て「徴候」と「索引」はより対象的であり、吟味するべき分節性とディテールをもっている。 「予感」と「徴候」とは、すぐれて差異性によって認知される。したがって些細な新奇さ、もっとも微かな変化が鋭敏な「徴候」であり、もっとも名状しがたい雰囲気的な変化が「予感」である。「予感」と「徴候」とに生きる時、人は、現在よりも少し前に生きているということである。 これに反して、「索引」は過去の集成への入り口である。「余韻」は、過ぎ去ったものの総体が残す雰囲気的なものである。「余韻」と「索引」とに生きる時、人は、現在よりも少し後れて生きている。 前者を「メタ世界A」、後者を「メタ世界B」と名付けたとして、AとBはまったく別個のものではない。「予感」が「余韻」に変容することは経験的事実だし、たとえは登山の前後を比較すればよいだろう。「索引」が歴史家にとっては「徴候」である、といったことも言い得る。 予感と徴候、余韻と索引、これら四者のあいだには、さらに微妙なさまざまな移行があるだろう。 嗅覚と観念の相似性 -2008.06.02記 T.S.エリオットは「観念を薔薇の花の匂いのごとくに感じる」と、ある評論の中で言った。 観念には匂いと非常に似ているところがある。それは一時には一つしか意識の座を占めない。二つの匂いが同じ強度で共在することはあり得ないが、観念もまた、二つが同じ強度で共存することは-ある程度以下の弱く漠然としたものを除いては-きわめて例外的で、病的な状態において辛うじてありうるか否か、というくらいだ。 また、匂いは、20秒くらいしか留まらない。匂い物質はなお送られてきていても、それに対する嗅覚は急速に作動しなくなってしまう。これは嗅覚が新しい入力に対応するためで、こうでなくてはならない。観念を虚空に把握しつづけることも、20秒以上は難しいのではないか。とすれば、持続的といわれる幻覚、妄想、固定観念も、絶えざる入力によって繰り返し再出現させて維持されていることを示唆する。ただ、この入力は、決して<自由意志>によるものではない。 さらに、両者とも、起こそうとして起こせるものではなく、ともに、基本的には意識を<襲う>ものである。少なくとも重要な気づきは、はげしい香りと同じく、人を撲つ、科学的.思想的発見であっても、パーソナルな気づきであっても。匂いも、観念も、ごく僅かな原因物質によって触発される。観念もきわめて些細な、しばしば意外な因子によって触発される。決して方法論に還元し得ないというところがある。 精緻な<意識的方法論>に拠る研究は堂々たる構えを持ちながら、その向う側が意外に貧しい場合も皆無ではない。これは方法論に拠る人の問題ではなく、方法論に拠るということ自体の持つ欠陥である。観念は生き物であって、鮮度を失わずに俎上にのせることにはある職人的熟練を要する。 なお、匂いはしばしば同定しがたい。観念もまた、その由来を尋ねるに由ないところがある。また、的確な定義のはなはだ難しいことは、よく人の知るところだろう。 「限定され尽くせばその観念の歴史においては結末、いわばその観念の死あるいは化石死である」とさえ言いうる。
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