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新たな生のほうへ 1978-1980 ロラン・バルト著作集10
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新たな生のほうへ 1978-1980 ロラン・バルト著作集10

ロランバルト(著者), 石川美子(訳者)

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新たな生のほうへ 1978-1980 ロラン・バルト著作集10

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内容紹介 内容:1978:少数派のなかの少数派. 音楽分析と知的作業. ゼロ度の彩色. 彼らから私たちへ. ベルナール・フォコン. 間(ま). 間・日本の時間/空間. 老人ノゴトキ子供、子供ノゴトキ老人. アンドレ・ブークルシュリエフの『オイディプス』について. 『彼自身によるロラン・バルト』の「学校の練習問題」への答え. フランソワ・フラオー『媒介する言葉』への序. 『ヤーコブソン』のはしがき. むすび-「バルト・シンポジウム」をしめくくって. 中性的なもの. テクストの快楽と思考のユートピアのはざまで. 大衆的にして現代的な. 舞台上のバルト. 忘れられた作家たち. シューベルトについて. いまなお身体を. 1979:クロニック. 固まる. 男性がいない. 巻頭言. ふたりの女. 記憶. 小説の準備(1)/迷路の隠喩. ロラン・バルトとの出会い. ロジェ・ラポルトによるフィクションと批評の関係. ロラン・バルトの一週間. わたしの三行広告. 他者を考える術. 雑誌の生と死.
販売会社/発売会社 みすず書房/
発売年月日 2003/12/10
JAN 9784622081203

新たな生のほうへ

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2013/03/10

おそらく気質的なものだろうが、長編より短編小説が好きだ。人生の真実や世界の在り様について長々しく語られるより、その一断面をできるだけ鮮明に切り取って見せられる方を好む。そういう意味で、断章形式を得意とするバルトは、御贔屓のひとりであった。文章に気取りがなく、知的ではあるが、変に気...

おそらく気質的なものだろうが、長編より短編小説が好きだ。人生の真実や世界の在り様について長々しく語られるより、その一断面をできるだけ鮮明に切り取って見せられる方を好む。そういう意味で、断章形式を得意とするバルトは、御贔屓のひとりであった。文章に気取りがなく、知的ではあるが、変に気難しくないのも気に入っていた。 構造主義者、あるいはポスト構造主義者と呼ばれる錚々たる顔ぶれの中にあって、重要な位置を占めるバルトだが、本人は常々、他の哲学畑出身の仲間とは異なり、自分の領分は文学だと語っている。それかあらぬか、最後には、小説の執筆を考えていたらしい。『新たな生のほうへ』という表題は、バルトが構想していた小説のタイトルでもある。残念ながら、自動車事故による死によって、その企図は達成されることはなかったが、何度も書き直された自筆の遺稿ノートが、見開きページに対訳つきで紹介されている。 『偶景』などを読むと、バルトが小説的なものを考えていたことは充分に想像することができるものの、断章風の短いテクストが、意図的に断片的に配置される形式からは、バルトが夢見ていたというトルストイやプルースト的な小説像は浮かび上がってこない。 書かれた作品は既に他者のもの(作品の死)、作者は作品を生きることはできない(作者の死)、という言表を既に明らかにしているすぐれて批評家的な資質を持つバルトにとって、遺されたノートから窺うことのできる、ほとんど実人生に寄り添った形の小説は、どのようにして可能だったのだろうか。 そのヒントになるのが、プルーストがそれまでの試作段階を経て、大作『失われた時を求めて』を執筆する後期に至る「謎」について書かれた「固まる」という短い文章である。バルトは、母の死という実人生上のできごとが、作家にあの大作を書かせたという決定論を信じない。創作の次元での技法を発見したことが、その理由だと言う。 バルトによれば、発見されたのは次のような技法(のうちのいくつか)である。(一)「わたし」を語るための一つの方法。すなわち「わたし」が作者なのか、語り手なのか、主人公なのか。どれをさすのか決めがたい独特な表現様式。(二)最終的に採用した固有名詞の真実(詩的な)。(三)スケールの変化。(四)最後に、プルーストがバルザックの『人間喜劇』のなかで発見した小説構造。「同じ人物をあらゆる小説のなかで用いたというバルザックの素晴らしい発明」である。 皮肉な巡り合わせというべきか、「訳者あとがき」によれば、77年12月の母の死以来、バルト自身が打ちのめされていたらしい。世界を愛せなくなったバルトは今までとはちがう新しい「バルト」を必要とした。それが、「わたし」の導入であるというのが訳者の説だ。「わたし」と、簡単に言い切れるほど、「わたし」は自明ではない。自分を指して「嘘がつけない」と言ったバルトが、あえて、「わたし」と書くには、「わたし」の虚構化が必要であった。 母親の死という実人生のできごとが作品を生み出すなどという決定論を信じないと言うバルトにとって、プルーストが発見したような技法上の発見が自身にもまた必要だったことはいうまでもない。遺された八枚のノートには、いかにして、小説という虚構を自分のものにするか、「作家」としてのバルトの苦闘が見えるようだ。書き直しては消し、また、書き直す。そこには、「テクストの快楽」を謳う軽やかなバルトはいない。創造者の苦悩は、創造する者のみが知る快楽を伴うものかもしれない。しかし、作品が書き上げられてこそ、その悦びもあるというもの。 その挙げ句が事故死による断絶である。誰のもにせよ死を弄ぶことはすべきではないが、私にはバルトの死が、トルストイやプルーストのような小説という自己の資質からは遠いものに憧れた故のイカロスの失墜のように思えてならない。本文所収の78年から80年の間に描かれた、それこそ断簡零墨というべき、テクスト群から伝わってくるバルトの声の調子は様々だが、バルト自身が、「おだやかな形式」と呼ぶ『クロニック』の「格言のような気取りがなく、警句のような辛辣さもないもの」「ようするに故意にマイナーであろうとする形式」に盛られた「小さな世界」を語る声は、もう聞くことができない。それがいかにも残念である。

Posted by ブクログ

2009/09/18

2009/ 2009/ 少数派のなかの少数派 音楽分析と知的作業 ゼロ度の彩色 彼らから私たちへ ベルナール・フォコン 間(ま) 間・日本の時間・空間 老人ノゴトキ子供、子供ノゴトキ老人 アンドレ・ブークルシュリエフの『オイディプス』について 『彼自身によるロラン・バルト』の「...

2009/ 2009/ 少数派のなかの少数派 音楽分析と知的作業 ゼロ度の彩色 彼らから私たちへ ベルナール・フォコン 間(ま) 間・日本の時間・空間 老人ノゴトキ子供、子供ノゴトキ老人 アンドレ・ブークルシュリエフの『オイディプス』について 『彼自身によるロラン・バルト』の「学校の練習問題」への答え フランソワ・フラオー『媒介する言葉』への序 『ヤーコブソン』のはしがき 中性的なもの テクストの快楽と思考のユートピアのはざまで 大衆的にして現代的な 舞台上のバルト 忘れられた作家たち シューベルトについて いまなお身体を クロニック 固まる 男性がいない 巻頭言 ふたりの女 記憶 小説の準備1・迷路の隠喩 ロラン・バルトとの出会い ロジェ・ラポルトによるフィクションと批評の関係 ロラン・バルトの一週間 わたしの三行広告 他者を考える術 雑誌の生と死 リュシアン・クレルグ写真集についてのノート ピアノ―思い出 親愛なるアントニオーニ…… 『アシェット辞典』への序 インタヴュー 子供時代の読書 新たな生

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