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ひらがな日本美術史(4)
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 新潮社/ |
発売年月日 | 2002/11/20 |
JAN | 9784104061051 |
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ひらがな日本美術史(4)
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「俵屋宗達の『牛』は、「牛のまんま」だから、結構量感もあってヘヴィなのだが、そのくせ対照的なのは、宗達の『龍』である。アメリカはワシントンのフリア美術館にある宗達の《雲龍図屏風》は、「なんでこういうすごい龍の絵をアメリカに持ってっちゃったんだよー」と泣きたくなるくらいのもので、私...
「俵屋宗達の『牛』は、「牛のまんま」だから、結構量感もあってヘヴィなのだが、そのくせ対照的なのは、宗達の『龍』である。アメリカはワシントンのフリア美術館にある宗達の《雲龍図屏風》は、「なんでこういうすごい龍の絵をアメリカに持ってっちゃったんだよー」と泣きたくなるくらいのもので、私に言わせれば、これは日本人の描いた最高の龍である。 六曲一双の水墨画の屏風に描かれた二頭の龍は、日本人画家の描いた龍の中で、一番生き物っぽい。だからこそ、おどろしくない。ちゃんと「龍という存在する生き物」になっているから、《牛図》とおんなじで、「龍は龍」なのである。そして、龍という空想の生き物をそのようにあらわすために、宗達はここで「線による説明」をしている。宗達の《雲龍図屏風》は、雲の部分だけが「たらし込み」を駆使した水墨表現だけれども、肝心の「龍」は、明確な薄墨の線で描かれた「白描表現」なのである。線で説明をして、その説明を説明のままで終わらせている。宗達にとっての「龍」とは、「きちんと説明しなきゃどっかに行ってしまう、よく分からない空想上の動物」だったのだろう。だから、きちんと線で説明している。この「線による説明」は、でっかい象や唐獅子が「ボン!」といるだけの京都・養源院の杉戸絵にも典型にあらわれている。 養源院の《白象図杉戸》は、「象というのはかかるもの」という説明の極致である。俵屋宗達という人は、象や唐獅子や龍を明確に見てしまう人なのである。だから、説明をすることが出来る。象はともかく、空想上の生き物である龍や唐獅子を、どうしてそんなに明確に見ることが出来るのかーそうじゃなかったら、かくも明快に説明は出来ない。 私は宗達じゃないから、彼の頭の中なんかは分からないが、俵屋宗達という人は、数ある日本人画家の中で、最も明確に「龍」という生き物の形を説明出来る人なのである。「俵屋宗達を最高の画家とするような形で、日本の美術は存在している」というのは、おそらく、「俵屋宗達の龍が一番リアリティがあるから」ではない。宗達の超越は、「彼が平気で説明という行為を超えていて、しかもなおかつ、説明しようと思ったら、誰よりもちゃんとその説明が出来るから」である。 日本の美術は、「なんとかして、″説明″という理屈臭さを超えたいと思っているものの集積」なのだろうと、私は思っているのである。 俵屋宗達という人は、おそらく、なにを見ても「自分の絵」として解釈し直せた人だと思う。「牛」を見ても、「田舎の春」を見ても、植物でも動物でも、あるいは「他人の描いた絵」でも、宗達にとって、「それを見る」ということは、そのまま「それを絵にする」ということだったはずだ。だから、どんなものでも描けた。後のピカソみたいである。現実に存在しない風神や雷神や龍なんかならイメージされたその時に、既に「絵」としてのイメージ把握が完了されていた。だからこそ宗達は、「これをどう描くか?」という悩み方をしない。それがないからこそ、宗達の絵は軽やかで自由だ。俵屋宗達にとって、なにかを「見る」ということは、そのまま「それを絵として把握する」ということだったのだ。だからこそ、技法で悩まず、どんな絵でも描いてしまう。見たら、それがそのまんま「絵」になって行く。 桂離宮のすごさは、写真では伝わらない。桂離宮は、「そこで感じるもの」であり、そこで動く人の関心に対応して姿を変えるように作られた、″生き物″だからである。桂離宮で「石」だけを見ているわけにはいかない。「石」見ていると自然と他のものにも目がいく。他のものを見て歩いていても自然と「石」は目に入ってくる。「どこを見ろ」とも、桂離宮は命令しない。「どっから見るのもあなたの自由」で、「どっから見てもなんとかなるようにはいたしましたがね」と言っているのが桂離宮なのである。 芸術は、″祈らないもの″ではない。芸術もまた″祈る″祈って、その祈りの解釈は、受け手の各人に任されている。仏像のくせに、円空仏は、ちっとも仏教を感じさせない。だから、「仏像ではない、芸術だ」と思う。「それでかまわない」と受け手の私が思うのは、既に見る我々の中に、″祈る″という各人それぞれの″信仰″があるからである。 円空のいた時代、既に宗教は「社会のもの」になっていた。その宗教の中にいて、そこから抜け出た円空は、「祈りを必要とする個人の神イコール芸術」となったのである。 円空の祈りは、もう宗教を超えている。美術史が社会のあり方をなぞる時、円空は平気で美術史から抜け落ちる。抜け落ちて円空は、「なにが大切か?」を問うのである。 4巻目も読んで大変面白かった。桂離宮にまた行き「石」を見ながら俯瞰したいと思う。 次巻も楽しみ。
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