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余白の芸術
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | みすず書房 |
発売年月日 | 2000/11/10 |
JAN | 9784622044239 |
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商品レビュー
3.5
4件のお客様レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
視覚、身体としての‥‥ -2009.02.14記 近代主義の視覚とは、同一性の確認のための眼差しである。 言い換えれば、自己の意志で対象物を措定しておき、それを見るという意味だ。 ルネサンス以後の遠近法の発達で解るように、意志的な視覚主義は、客観性と科学性を標榜した脳中心思想からきたものである。 それを合理的に図式化した人がデカルトであり、彼において、見るということは、egoによる視覚の規定力を指している。 ところで、広い世界を前にしたごく限られた眼は、逆遠近法的に開いている。 自分の眼の前のものより遠いところをもっと広く思い、そのように見るということは誰でも知っており経験していることだ。 もちろん具体的な対象世界において、近くのものが大きく見え、ずっと遠いものは小さく見えるということが科学的であることは明らかだが、眼の限定性からくる感じ-思い-が、その反対であることもまた否定できない。 最近では、古代社会の絵画や中世のイコン、または東洋の山水画などの分析から、逆遠近法の考え方が再照明されていることも注目に値する。むしろ近代の遠近法というものが、人類文化史の中では特異な時代の産物であるという者さえいる。 今日、視覚という時、何処に焦点を置くかによって、正反対の言葉になってしまう。 近代的な遠近法的視覚とは、こちらからあちらを一方的に捉え定めることをいう。対象物自体とか世界が重要なのではなく、見る主体の意識と知識による規定力が決定的であるということだ。 ここでは見るということが、設定された素材やデータで組み立てたTextと向き合う態度である。 これに対し、逆遠近法では、反対に、向こうからこちらを見ている形であるため、世界の側が圧倒的に大きく扱われる。それゆえ見る者の対象物に対する限定力は、曖昧で弱くなるしかない。 このような視覚は、受動性が強く、偶然性や非規定的な要素の作用が著しくなりがちだろう。 ここで私は、受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚を重視したい。 人間は意識的な存在であると同時に、身体的な存在でもある点を再確認すれば、どちらにしても見るということが一方的であってはなるまい。 身体は私に属していると同時に、外界とも連なっている両義的な媒介項である。だから身体を通して見るということは、見ると同時に見られることであり、見られると同時に見ることなのだ。-略- 美術は視覚と不可分の領域である。-略- 私と外界が相互関係によって世界する、という立場からすれば、作品もまた差異性と非同一性の一種の関係項である。-略- 作品において、知的な概念性とともに、感性による知覚を呼び起こすことが出来るということは、そこに未知的な外部性が浸透されているということであり、だから、見る者と対話が成り立つのだ。 見るという行為は、身体を媒介にして対象との相互関係の場の出来事を招く。 作品が、出会いが可能な他者性を帯び、見るということが両義性を回復する時、新しい地平は開かれよう。
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芸術についていろいろ考えさせられる刺激的な一冊。エッセイ形式ではあるが、散漫でなく、彼の作品と同様にミニマルかつ詩的。
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作者がどれだけ知識が豊富で、自分の思考体系を構築してるかってのがよく分かる。 でもそれゆえ、一つ一つの内容を読むのにとても時間がかかり、ちょっとずつ読みながらひと月くらいかかってしまった。 NYのグッゲンハイムにて丁度個展をしていて、彼の多くの作品を目にする機械に恵...
作者がどれだけ知識が豊富で、自分の思考体系を構築してるかってのがよく分かる。 でもそれゆえ、一つ一つの内容を読むのにとても時間がかかり、ちょっとずつ読みながらひと月くらいかかってしまった。 NYのグッゲンハイムにて丁度個展をしていて、彼の多くの作品を目にする機械に恵まれた。 街そのものが、最先端のアートのようで、目にする情報の多さに疲れ果ててしまった中、彼の個展は、すとんとその喧騒を断ち切って、懐かしみを持って私を迎えてくれた気がした。私が日本人だということが、大きく関係していたのだろうと思う。 正直、モノ派とかよく分からなくて、上から順に螺旋の道のりをたどりながら作品を伺って行った。タイトルもそっけないもので、そこに無作為化のように鎮座している石だの鉄板だのを、わたしはどう受け止めたらいいのかよく分からなかった。でもなんでか感じたその懐かしみは、彼の意図するところとは違うのかもしれないけれど、私に「想像する楽しみ」を残してくれていたためな気がする。 わたしは、「見立てて楽しむ」鑑賞をしてみた。ひとつひとつに、自分でタイトルをつけて楽しんだ。正しい鑑賞方法なのかは分からないけれど、目の前にある、ものとものとの関係が、私個人にはこう見える、と思うのは間違った鑑賞方法ではないと思った。 あとひとつ、大きな展示室にある、小さな四角いグラデーションが配置されている平面?作品。あれ、好きだなぁ。 なんか、3面に3つの窓があるようだった。一番上は空を、真ん中は、水の流れを、一番下は、水平線を表しているみたいで、ただのグラデーションの四角なのかもしれないけれど、その小さな四角から垣間見れる壮大な奥行きに、なんだかとても開放的な気分を与えてもらったような気になった。 とまぁ、NYで彼の作品に出会ったわけなのですが、 その裏づけというか、彼が何を考えているのかというのがほんの少し垣間見れたかな、といった感想しかまだもてない。 開かれた、芸術を。外部とのコミュニケーションとなる芸術を。
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