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日本地図から歴史を読む方法 都市・街道・港・城跡…意外な日本史が見えてくる KAWADE夢新書
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 河出書房新社 |
発売年月日 | 1998/06/01 |
JAN | 9784309501499 |
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日本地図から歴史を読む方法
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商品レビュー
3.4
6件のお客様レビュー
自然地理と言う学問 地球全体の「微小な温度変化」が、日本の歴史に大きな影響を与えてきた、温暖夏雨気候と温暖湿潤気候で文明の進歩に明確な差が 関東は、台地、関東ローム層で開発は江戸以降 輸送は船舶に優位性、海流の利用で出雲に独自勢力、、、 『日本人の源流』でDNA的に裏付け
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1998年刊行。著者は明治学院大学助教授。 地理的分析をもとに、日本各地の都市(江戸、京、大坂)、町(難波、堺、博多など)、街道の形成史、交易史を解説する。
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歴史が好きで歴史小説を楽しんできた私ですが、数年前にふと、歴史上の事件を考える上で当時の気候および土地がどうなっていたかを把握していた上で眺めてみると今までと違った見方になることに気づきました。 違ったというよりは「より真実に近い」という感覚ですが、この本のサブタイトルにもある...
歴史が好きで歴史小説を楽しんできた私ですが、数年前にふと、歴史上の事件を考える上で当時の気候および土地がどうなっていたかを把握していた上で眺めてみると今までと違った見方になることに気づきました。 違ったというよりは「より真実に近い」という感覚ですが、この本のサブタイトルにもあるように「意外な日本史が見えてくる」ようです。 この本の著者は、今までも多くの気づきを与えてくれた武光氏によるものです。百聞は一見にしかず、といいますが、古い時代の江戸の地図に現在の山手線の線路を重ねた図(p63)は、東京の現在の市街地は以前は海であったとか、東京都内には大きな池があったことが示されていて印象的でした。 以下は気になったポイントです。 ・伊能図は緯度は正確だが、経度の精度はあまり高くない。九州南部や東北地方、北海道が実際より東にずれている。当時、クロノメータがなかったから。さらに標高も測ることができなかった(p22) ・日本の気候はたえず小さな変化を繰り返しているが長い目で見れば現在の地球は温暖になっている、これは約1万年前に最後の氷期であるヴェルム氷期が終わったことによる(p25) ・4-5世紀の古墳時代に再び寒冷期が訪れ稲作に影響がでた。このため日本文明の停滞期、寒冷期の終わる飛鳥・奈良時代に仏教を核にした華やかな中国風文化が花開く事になった。江戸時代後半にも小氷期があった。このため天明の飢饉をはじめ十数回の例外が起きた。1993年の冷夏による米不足が良い例(p26) ・かつて弥生時代のはじめに朝鮮半島から移住してきた人々が先住民である縄文人を滅ぼしたとする説がだされたが、照葉樹林の広まりの考察から、その意見が的外れとわかる、縄文人がは落葉樹が日本に広まっていったときに全国に広まり、照葉樹林の拡大に追われて北方へ移動した(p38) ・北九州から日本海航路をさかのぼった船は、まず出雲で休息した。出雲政権は、日本海航海路の中継地として反映した(p48) ・浅草寺と深大寺は、国分寺よりも古い時代に建てられた寺院である、そこを拠点に中央の文化が周囲に広まっていった(p56) ・江戸城は7つの台地に囲まれている、上野・本郷・小石川・牛込・麹町・麻布・白金台地である(p64) ・江戸の町は、武家が住む武家地と、寺社がおかれた寺社地と、町人が生活する町地に別れていた。江戸町奉行の支配は、町地のみ(p67) ・京都は「四神相応の地」である、北の玄武(洛北の山)、東の清龍(鴨川)、南の朱雀(巨椋池)、西の白虎(山陽道と山陰道)を備えている。しかし江戸はそうではない(p87) ・堺が栄えたのは、奈良からくる交通路が大阪湾沿岸に出る位置にあったから、鎌倉時代以降に奈良の寺社や商人が注目し始めた、吉野にあった南朝が京都の北朝の干渉を受けずに四国、九州の見方と連絡するため(p101) ・織田信長は堺を直轄として自治を否定した。そのあとも商業都市として重きをなしたが江戸時代はじめに後退した、大阪の陣で堺が全焼した、外国貿易が行われなくなった、大和川の流れ変更の工事、特にこの工事により、大和川が運ぶ土砂が堺の海に押し出され港が使いモノにならなくなった(p102) ・戦国騒乱の中で、細川・畠山・三好・松永氏らが京都の争奪戦をくりかえす時期に、大阪の本願寺と堺の自治都市という2つの独立政権があった(p104) ・1684年に安治川が開かれた、それによって中之島でいったん分かれた支流がふたたび集まるあたりから最短距離で海にでれるようになった。これにより大型船が淀川に入れるようになった。つまり大阪に物資を送れば、そのまま水路で伏見まで運べるようになった、これが、堺・兵庫との決定的な差になった(p110) ・商人の町・博多と、武士の町・福岡の、二つの地名が大きな問題になった。明治22年、博多側が博多市を強く主張したにもかかわらず、県の告示で福岡市と定められた。しかし駅名は「博多」となり現在まで受け継がれた(p143) ・横浜も神戸も、古くからあった港のそばの漁村を開発する形で貿易港になっている。日米修好通商条約で神奈川と兵庫を開くことになったが、幕府が神奈川や兵庫の中心地に外国人がくることを恐れたから(p161) ・日本海流は奄美大島のところで2つに分かれ、ひとつは九州西に入り対馬海流、もうひとつは、日本南岸を通り、伊豆七島のところで二筋の流れになる、一本目(海暗)は御蔵島と三宅島の間、二本目(黒瀬川)は八丈島のすぐ北、黒瀬川の流れははるかに強いので八丈島につくのは容易ではないと考えられ、本土と八丈島との交流発展が遅れた(p197) 2014年5月18日作成
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