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虚構の時代の果て オウムと世界最終戦争 ちくま新書
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房/ |
発売年月日 | 1996/06/20 |
JAN | 9784480056733 |
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虚構の時代の果て
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虚構の時代の果て
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商品レビュー
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1 ・阪神淡路 危機管理問題と他でもありえた偶有性 →無念の死 自己が「自己同一性を超えたもの」でもある ・オウム地下鉄サリン 国家に擬した集団によるテロ行為のよう 陰謀史観 Armageddonの前哨戦 あらん限り近い他者 4割のスパイ 2 見田「現実と理想・夢・虚構」 理...
1 ・阪神淡路 危機管理問題と他でもありえた偶有性 →無念の死 自己が「自己同一性を超えたもの」でもある ・オウム地下鉄サリン 国家に擬した集団によるテロ行為のよう 陰謀史観 Armageddonの前哨戦 あらん限り近い他者 4割のスパイ 2 見田「現実と理想・夢・虚構」 理想 未来に着地することが予期・期待される=現実の因果的な延長上 虚構 現実に無関連でありうる可能世界=純粋な反現実 戦中→黒、敗戦直後→灰色、60年代前半→ピンク 60年代の流行歌の転換点 坂本「上を向いて歩こう」 連合赤軍事件 前後民主主義(アメリカ)Stalinism(ソ連) →失敗→終末論 サブカル 村上春樹 世界の終わり 3 ポル・ポト クンダリニー=サリン 秋山英俊 千葉大学文学部に提出した卒論 4 オウムの出家信者に与えられるワーク 虚構は、否定的な形式において、現実に依存するほかない、と。現実を全的に否定する力を想定することで確保される〈超越性〉によってのみ、虚構(可能世界)の有意味性(魅力)が確保されるからである。 5 空虚なことば 他者として生きる 6 総括とポア
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一人の人間にとって不可避的に解消不能なものとして対峙せねばならない対象が二つある。 他者と社会である。 他者は私が体験する初めての現実的衝突、精神的な規制を敷く圧制者として現れる。そして社会とは人生が大方このシステムによって規定される意味で無意識レベルでの影響、不退転の存在を...
一人の人間にとって不可避的に解消不能なものとして対峙せねばならない対象が二つある。 他者と社会である。 他者は私が体験する初めての現実的衝突、精神的な規制を敷く圧制者として現れる。そして社会とは人生が大方このシステムによって規定される意味で無意識レベルでの影響、不退転の存在を意識させるメタ抑圧である。 抑圧とは私の意欲を削ぐモノと云った意味である。他者からの抑圧は働き掛ける方向性が外部から直接的にわたしの中にメッセージが届けられる意味で極限的な接続性を持つ。 人間集団が存在している限り、一個人は多数の他者から不快を示すメッセージを次々と受け取り続けねばならない。私が他者を不快に感ずるのは、不快だと云う意味を躊躇無く他者へ訴え示す余りにも身勝手な安直性についてである。行動とはまさしく他者に働き掛ける意味で二重性を纏う。自分が他者に訴えるメッセージの直接性に対して、他者はそのように私が思っている事実に対してより包括的な不快を更に強力な直接性として表現する。不快感は人間同士で伝え合う以上、メタレベルにまで深化せずにおれない。 この不快感を押し付ける抑圧に一人の人間としてどう対処しうるだろうか。 まず、抑圧はあくまで自分の問題として身に受けるべきだ。その意味で自分が何に抑圧されているかを明確にする必要がある。他者は、私が無意識的レベルでも顕現的レベルでも抑圧されてない状態にある事を、望ましいものとして欲するだろう。その意味で、本当の抑圧原因である対象から私が逃げている場合、他者は何らかの信号を発して、私の態度はいま間違ってるから改善するべきだ、と認識させようとするだろう。 他者は、私が己の態度を認識し自覚する自己認識レベルよりも、深い位置から観察し、批判解釈できる立場にある。 他者は包括者なのだから。 私は、自分の問題として真の敵である抑圧に向かって真剣に戦ってるか否か、によって他者からの批判を受けるべきだと考えている。他者は、真剣に戦ってるか否かに焦点を置いて、不断にその者の生活を透徹するような視線を凝らして、観察し続けている。私が私に与えられた試練を乗り越える事を目指しているように、誰もが自分の人生として己の試練を認識し、勝利に向かって前進しようと戦いながら生きている。世の中の実情とは、意外とシビアに出来ているのだ。 この問題意識から逃げようとすれば、他者は容赦なく不快感を発して、私に警告しようとするだろう。 個人主義の社会に生きる我々は、生き方はそれぞれ違えど、意識の中では互いに極限的な直接性として繋がり合おうと欲している。現代は、心のネットワーク社会なのだ。私は、彼らとより良き共存関係を築けるよう、自分の人生に打ち勝たなくてはならない。
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「人びとの行為を規定しているのは、何を信じているかではなくて、何を信じている他者を想定しているかである。自らは虚構を信じていなくても、その虚構を信じている他者を想定して行動してしまえば、虚構を信じている者と結果的には同じことをやってしまう」 「かのように」動けば、まさにその通り...
「人びとの行為を規定しているのは、何を信じているかではなくて、何を信じている他者を想定しているかである。自らは虚構を信じていなくても、その虚構を信じている他者を想定して行動してしまえば、虚構を信じている者と結果的には同じことをやってしまう」 「かのように」動けば、まさにその通りの人物になる。 そんな諺があったような気もするが、この引用はまさにそのことを指しているように思う。 宗教を信じる、というとどこか遠い異世界のような気がする。 その感覚はかなり日本人に共有されているような気がするし、僕自身にとってもそうだ。 宗教を信じている人は別物、それゆえに彼らはいつまでたっても他者であって、自らとの共通項を見出すことができない。それゆえに彼らはいつまでも「気持ち悪い」存在となる。 ただ、「信じる」という行いは、たとえば風刺画で描かれるような狂信者のそれのようなものなのだろうか?信じるということはあまりにもステレオタイプに受け取られているが、「信じる」一つとってみても様々なバリエーションがあるのではないだろうか。 たとえば行動。信じていないとしつつ、「かのように」行動をするということはよくある。宗教がらみでいえば法事だってそうだろうし、お盆だってそうかもしれない。 行動を取ることでその行動にまつわる信仰は必ず意識される。それに自意識で抗うか抗わないかの差はあるだろうが、いつまでも己の行動に対して否定的な気持ちだけで埋め尽くし続けることは難しい。信仰とまではいかないとしつつも、その行動に対して好意的になるということはよくあることだ。 そしてこの「好意的」になるということは、外部から見ればまるで宗教的な態度、ということもよくある。宗教は信仰するものではなく、好きになるもの――そういえば昔『仏教が好き!』という名の本がたしかにあった――と見なすことも可能なわけだ。 私は別に新しい定義づけがしたいというわけではまったくないけれども、「信じる」にせよ「好き」にせよ、外部から見れば変わらないということはよくある話であって、そしてそうである以上、どちらも「信仰」の一つの形態と見なすこともできるに違いない、というのが現在の僕の立場である。
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