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エロスの涙
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | トレヴィル/リブロポート |
発売年月日 | 1995/02/25 |
JAN | 9784845709489 |
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2件のお客様レビュー
本書には、中国の恐ろしい死刑の写真が掲載されているが、私は見ないようにしている。 しかし、J.M.カプレッティの「ダナオイの瓶」は不思議な美しさがあり、その女性裸体像は大へん魅力的である。 カプレッティの「ダナオイの瓶」を発見したことが、いちばんの収穫である。 ところで、『エロ...
本書には、中国の恐ろしい死刑の写真が掲載されているが、私は見ないようにしている。 しかし、J.M.カプレッティの「ダナオイの瓶」は不思議な美しさがあり、その女性裸体像は大へん魅力的である。 カプレッティの「ダナオイの瓶」を発見したことが、いちばんの収穫である。 ところで、『エロスの涙』は、本書・樋口裕一訳(トレヴィル)と森本和夫訳(ちくま学芸文庫)がある。 (美術書の出版社トレヴィル(1985年-1998年)が刊行する画集などの美術書は、リブロポートが販売した。トレヴィルの出版事業は、エディシオン・トレヴィルが引き継いだ。) 例として、「5 エロティックな笑いから禁止へ」における同じ個所の訳文を比較してみる。 樋口訳 <エロティシズムの基本は性行為である。ところで、この行為は禁止を受けることになる。愛の行為を行うことは、こっそりするのでないかぎりは、とんでもないことであり、禁じられているのである。 ところが、こっそりとそれをすると、禁じられているものは禁じられているがゆえに、変貌し、不吉であると同時に神聖な明かりで照らし出される。一言で言えば、宗教の明かりで照らし出される。 禁止は、その禁止の持つ価値を、禁じたものに与える。しばしば、やめようという気持ちになった時に禁じられて、私は、まったく逆に、ひそかに挑発されたのではないかという気になったほどだ。 禁止は禁じられた行為に、それ以前にはなかった意味を与える。禁じることによって、禁じられていなければ誘惑の邪な輝き持たなかったと思われる違反に巻き込む。禁止に違反することが人の心を魅了するのである。> 森本訳 <エロティシズムの土台は、性活動である。ところで、この活動は、禁止の攻撃のもとに倒れる。愛の行為をすることは、とんでもない!のであり、”禁止される”のだ!ひそかに行なうのでないかぎり・・・。 けれども、もしも、ひそかにわれわれがそれを行なうならば、禁止は、美化を施し、おのれの禁止するものを、不気味であると同時に神々しい微光によって、照らすのである。つまり、要するに、宗教的な微光によって照らすわけなのだ。 禁止は、おのれ自身の価値を、おのれが攻撃を加える相手に与える。しばしば、私は、ちょうど排除しようという意図を捉える瞬間に、まさしく逆に、陰険にも挑発されされたのではなかろうかと自問することがあるのだ! 禁止は、おのれが攻撃を加える相手に、禁止される行動がそれ自身において持っていなかった意味を与える。禁止は、侵犯へと引き込むのであって、その侵犯なしには、われわれを誘惑する悪い微光を持たなかったであろう・・・。まさに禁止の侵犯こそが、呪縛をかけるのである・・・。> どちらを採るかは読者の好み次第だが、樋口訳のほうが訳文がこなれていて読みやすい。 いずれにしても、「禁止に違反することが人の心を魅了する」ので、男どもはエロ画像をひそかに楽しむのである。 樋口訳が優れている点として、バタイユによる序文と共に、『エロスの涙』の協力者 J・M・ロ=デュカによる序文「はるかなるジョルジュ・バタイユ」及びバタイユの「未発表書簡」が載せられていることも強調したい。 後の二つは貴重な資料と思われるが、森本訳には含まれていない。 ロ=デュカによる「はるかなるジョルジュ・バタイユ」は、晩年のバタイユの佇まいを詩情豊かに描写しており、静かな感動を誘う。 <私が最後のバタイユに会ったとき、彼は日の照る朝のカフェ・フロールに座っていた。・・・ジョルジュ・バタイユは青い目と白い髪、比類ない若さでそこにいる。彼の微笑がこわばることは少しもない。彼は遠慮深すぎてほとんど目に入らないほどだ。あたかも、そばを天使が通り過ぎたかのように、ふと会話が途切れる。それ以来、彼とは会わなかった。今では、朝の太陽の中で、鳩もやって来ないような墓石ばかりを夢見た彼が残されているにすぎない。> この「はるかなるジョルジュ・バタイユ」は「ダナオイの瓶」に次ぐ大きな収穫である。
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とある論文でこの作品に収められている写真についての言及があって、そこから、辿り着きました。生と死のエロスの崇高さをつづった本で、私が思ってきた死の概念にとても近い。フランス語にいう絶頂が「小さな死」を意味するというくだりが目下のところ、一番考えさせられている部分。「絶頂」という言...
とある論文でこの作品に収められている写真についての言及があって、そこから、辿り着きました。生と死のエロスの崇高さをつづった本で、私が思ってきた死の概念にとても近い。フランス語にいう絶頂が「小さな死」を意味するというくだりが目下のところ、一番考えさせられている部分。「絶頂」という言葉もそれにとても近いのではないかと思える。エロスは生よりも死に近い、という倒錯の美学は、人間の精神に刻まれたものだと私は信じている。ところで終章で扱われているフー・チュー・リーの百刻みは、彼を主人公にして物語を書こうと思っている。バタイユが魅了された彼の恍惚とした表情は、金沢にあるとある能の仮面にそっくりであることを見つけた。……猩々の面で、やはりフー・チュー・リーの顔は写真の偶然が生んだものではなく、陶酔のそれであることを確信している。
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