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コウモリであるとはどのようなことか
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 勁草書房 |
発売年月日 | 1989/06/20 |
JAN | 9784326152223 |
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コウモリであるとはどのようなことか
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商品レビュー
4.3
5件のお客様レビュー
死とは何か? 生きる意味とは何か?
哲学書というよりも倫理学的要素が強い。また本の題名にあるように、コウモリであるとはどのようなことか、という問いは心理学的要素を含んだ哲学分野、心の哲学、というものに深く関わっている。 ウィキで「心の哲学」を調べてみると面白い。そこからこの本に辿り着いた。 (ちなみに、「...
哲学書というよりも倫理学的要素が強い。また本の題名にあるように、コウモリであるとはどのようなことか、という問いは心理学的要素を含んだ哲学分野、心の哲学、というものに深く関わっている。 ウィキで「心の哲学」を調べてみると面白い。そこからこの本に辿り着いた。 (ちなみに、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」というウィキの項目も非常に面白いのでおススメ。哲学の根本問題、究極の問い) トマス・ネーゲルは哲学的(倫理的)問題を語る上で重要な点を欠いてはいない。過去幾多の優れた哲学者たちがしてきたように、同様の手段で以って記述している。それは日常卑近な事柄から哲学的・形而上学的高みを目指そうと言う古代ギリシャから変わらず用いられてきた全体を構成する方法だ。 一つ目の主題の「死」から、「人生の無意味さ」、「道徳における運の問題」と、日常一般的に直面しうる実際的あるいは感覚的体験に基づく問題を論文形式で書いていく。 一つひとつの主題が十数ページと短めな構成となっているので、だらだらと説明に言葉を費やすことがなく、簡潔でわかりやすい。その上、具体的で分かり易い例示が多く、その主題の本質的問題、そもそも我々は何をそこで問うているのかを明朗に述べてくれる。 哲学や倫理学に触れてみる入門書的要素もあり、やや難解なところもあるが、丁寧に読み進めれば理解できないということはないと思われる。また、物事の本質的な問題に目を向けるための力を養うのにも優れた著作であるが故に、一般社会の事柄に応用することも可能なのではないだろうか。 死とは何か? これは普段から誰もが世界から問われうる問いだと思う。 例えば友人の死、同僚の死、肉親の死、等々、その機会は多分に在る。 そして、今のところ生まれてこのかた生き続けているという人は存在しないであろうことを考慮すれば、当然である。 人は必ず死ぬ、それは常識というか一般知識として余りに有り触れ、自明のことであるように思われるが、必ずしもそうではないというその可能性については問わないこととし、事実として必ず死が訪れるという前提に立てば、人は他人の死の機会に触れないことは少ないだろう。(ただし、他人の死に触れる前に自分の死が訪れる場合は別として。) そんな「死」に関して、ネーゲルは人間が「死」に対して持つ漠然とした感情について省察している。 それが非常に興味深く面白い。 この「死」という項目だけでも十分にこの本は買うに値したと思う。
katydid
難解。この手の哲学本はたまに取って読んでしまうが、今回はあまり気分が乗ってなかったのかもしれない。 前半は我慢して読み、後半は少し楽しくなった。コウモリ論文は意識の問題で、同じ哺乳類のヒトはどう自己をホモサピエンスと意識するのか考えながら読むとよいと感じた。 たまに哲学本で感...
難解。この手の哲学本はたまに取って読んでしまうが、今回はあまり気分が乗ってなかったのかもしれない。 前半は我慢して読み、後半は少し楽しくなった。コウモリ論文は意識の問題で、同じ哺乳類のヒトはどう自己をホモサピエンスと意識するのか考えながら読むとよいと感じた。 たまに哲学本で感じるいつかまた読みたいと思う日が来るのかは不明。
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僕が高校生の頃に話題になっていた本。当時ちょっと読みかじった記憶はあるが、30年を経てほぼ記憶はゼロ。柔和な印象を与える書題に比べ内容がハードだったことと、訳者の永井均氏の名をその後よく一般向けの哲学解説書で見かけるようになったことだけが印象に残っている。数ヶ月前、「世界は『関...
僕が高校生の頃に話題になっていた本。当時ちょっと読みかじった記憶はあるが、30年を経てほぼ記憶はゼロ。柔和な印象を与える書題に比べ内容がハードだったことと、訳者の永井均氏の名をその後よく一般向けの哲学解説書で見かけるようになったことだけが印象に残っている。数ヶ月前、「世界は『関係』でできている(カルロ・ロヴェッリ)」でネーゲルの名が挙げられていたので今回改めて再読したが、ほぼ初読に近い新鮮味だった。 訳者あとがきにあるように、まず最終章の14章を読んでから他章にあたると著者の論点が明確となり理解やすい。どの章も「ある主体にとって固有の命題と、その主体外部のより大きな視点から見た同じ命題との間の相剋」を扱うものであり、つまりは14章の章題である「主観と客観」つまり自己の統制下にあるものとそれを超え出ようものとの関係を論ずるものだからだ。 その観点から読み進めていくと、本書のような他からの参照が多くなされる本にありがちではあるのだが、他の論者からのネーゲルの引用に誤読が多いことに気付かされる。例えば先に挙げたロヴェッリのネーゲル批判は「ネーゲルによれば主体の内観は物理世界の第三人称視点からは把握できないとされるが、そもそも物理世界は第一人称による都度生成的な記述過程によってしか認識されないものだ」というものだが、本書を読めばわかるように、ネーゲルは主観を消去して客観を追求することの不毛さ、つまり「誰の視点でもない」ユニヴァーサルな視点を措定することの無意味さを論じているのであり、これはロヴェッリの実在論と何ら矛盾するところがない議論である(もちろん、ロヴェッリが物理現象の公共性は間主観性のみで説明可能、とするのに対し、ネーゲルはそのようなウィトゲンシュタイン的間主観性のみでは足りず外在性・超然性を備えた視点が必要だがそれは獲得不可能、とするところに大きな相違があるのだが)。このように「ネーゲル=ハードプロブレムやクオリアの提言者」というようなスレレオタイプの当てはめが多くなされてしまうのも、本書がいかに検証の対象とされる頻度が多かったか、ということの証左でもある。 最後に、あまり他で指摘されているのを見たことがないが、ネーゲルの「客観的超越」つまり特定の誰かにとってではなく「それ自体として」存在するもの、という概念は、カントの「物自体」とほぼ同じことを言っているように僕には思えた。
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