空色心経 の商品レビュー
般若心経を観自在菩薩が舎利子に説く話と同時進行に、コロナ禍で夫を亡くした麻木あいの心が解けていく様子を描いた本作。作者の実家の宗旨は浄土真宗……それは私の妻の実家と同じ宗旨。法事の際の読経はまるで和風ゴスペルだった。写経でお馴染みの般若心経は、短い経文の中に真理が詰まっている……...
般若心経を観自在菩薩が舎利子に説く話と同時進行に、コロナ禍で夫を亡くした麻木あいの心が解けていく様子を描いた本作。作者の実家の宗旨は浄土真宗……それは私の妻の実家と同じ宗旨。法事の際の読経はまるで和風ゴスペルだった。写経でお馴染みの般若心経は、短い経文の中に真理が詰まっている……気がする(笑)。「羯諦羯諦波羅羯諦~」を読むと、観自在菩薩が智慧との一体化の呪文と言うサンスクリット語の発音どおりに般若心経が読みたくなる。
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とても短い本だけれど、この本の内容が届く人の数はとても多い…と思う。 漫画にも「行間」というものがある。 というか、そう思っている、自分では。 そして、その「行間」の表し方が優れているものが好きだ。作家さんによって色々だけれど、敢えて小さく目立たなく描く人もいれば、線を変えて描く...
とても短い本だけれど、この本の内容が届く人の数はとても多い…と思う。 漫画にも「行間」というものがある。 というか、そう思っている、自分では。 そして、その「行間」の表し方が優れているものが好きだ。作家さんによって色々だけれど、敢えて小さく目立たなく描く人もいれば、線を変えて描く人もいる。描かない人もいる。 そこから伝わることを想像させる…そこに深みがあると思う。 この本は、言ってみれば「行間」だらけ。 逆に言うと読み手の好きなように解釈できる余地が多い。きっと、多くの人の心に、記憶に、残るのではないかな。 おそらくはコロナ禍のことだろうと想像できる。 おそらくはそれによって失った人のことだろう、と想像できる。おそらくは、ワクチンを打つ、打たない…その葛藤もあったはず… 主人公に「向き合う勇気」と「覚悟」を持つこと…その事実へと誘う誘い手に「般若心経」を持ってきているけれど、決して宗教色が濃いわけではない。 その意味を、自分の中で照らし合わせ、答え合わせ、最後までちゃんと自分で咀嚼している。 大事なのは、答え(と言われているモノ)をなぞるのではなく、自分ゴトとして捉え、真面目に考えること。本来、悟りって、そういうことだと思う。 「大丈夫、心はやがてのどかな海にたどり着くから」という言葉の意味が、読後にスッと入り込むと思う。 ぎゃーテー、ぎゃーテー… って、変な響き、って思ってたけど、、、 こんな素晴らしい意味があったのね。 無知って罪。
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私も祖父母を亡くしてから、時間を経るにつれて彼らから得た知見や思い出が血肉になる感覚がある。 まさに私の一部となって命が続いていく感覚は、縁起とか無我の境地って言うんだなと腑に落ちた。(梵我一如的な。) 人生は一切皆苦だし、癒えない傷もあるけど、癒えないなりに心ゆくまで持ち続け...
私も祖父母を亡くしてから、時間を経るにつれて彼らから得た知見や思い出が血肉になる感覚がある。 まさに私の一部となって命が続いていく感覚は、縁起とか無我の境地って言うんだなと腑に落ちた。(梵我一如的な。) 人生は一切皆苦だし、癒えない傷もあるけど、癒えないなりに心ゆくまで持ち続けても良いし、それすらも縁起だから無理に引き剥がさなくて良いってことだな、うんうん。
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※このレビューにはネタバレを含みます
般若心経をベースにした、こうの史代による漫画。本文内に印刷された「空色」と、般若心経の「『空』の観念」を掛けたタイトルがお洒落。 コロナ(と思われる感染症)禍の現代に生きるひとりの女性の物語と、観自在菩薩によるシャーリプトラへの説法(すなわち般若心経の全文)がオーバーラップしていく構成。説法は般若心経を基本にしているのだけれど、ところどころに理解の助けとなる言葉や例えが添えられ、物語と一体化していて分かりやすい。 とはいえ、“ならばこれが「空」であるのか”と問い出すとまた難しい気がするけれど、物語としては納得があり、ふたつの世界が重ね合わさる瞬間には漫画としてのカタルシスがあり、読み応えがあった。
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京都府福知山市が舞台のもよう。最後の鉄橋は由良川鉄橋ぽい。旦那さんは福知山城そばの竹林から笹舟を流したのかな。
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ネームバリューだけで読む人(今更、この作家に居るのか?とは思うが)を、華麗に振り払い、描きたい事、描かねばならぬ事を、その力でグイグイ描いて行く。 途中から、薄々勘づいてる事が明らかになる瞬間、2つの世界がひとつになる。 悲劇ではあるのだが、その筆致の美しさを感じざるおえない...
ネームバリューだけで読む人(今更、この作家に居るのか?とは思うが)を、華麗に振り払い、描きたい事、描かねばならぬ事を、その力でグイグイ描いて行く。 途中から、薄々勘づいてる事が明らかになる瞬間、2つの世界がひとつになる。 悲劇ではあるのだが、その筆致の美しさを感じざるおえない。
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31冊目『空色心経』(こうの史代 著、2025年4月、朝日新聞出版) コロナ禍の日本と釈迦が教えを説いた古代インド、2つの異なる時代と場所で起こる出来事が「般若心経」によって繋がる仏教漫画。『この世界の片隅に』以来12年ぶりとなる長編であり、青と黒の二色で描かれた美しい作品である...
31冊目『空色心経』(こうの史代 著、2025年4月、朝日新聞出版) コロナ禍の日本と釈迦が教えを説いた古代インド、2つの異なる時代と場所で起こる出来事が「般若心経」によって繋がる仏教漫画。『この世界の片隅に』以来12年ぶりとなる長編であり、青と黒の二色で描かれた美しい作品である。 観自在菩薩と舎利子の対話は宗教的というよりは哲学的で一読しただけでは理解し切れない。 仏教とコロナ禍という題材は少々堅苦しいが、読後は憑き物が落ちたような爽やかさを感じられるだろう。 〈心はやがて のどかな海に たどり着く〉
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初出はアメブロ「こうのの日々」(2023年12月19日〜2025年2月24日)、たまに見てはいたけれど、部分だけ切れ切れにみてもとりとめがなく、はやく本になれ〜と念じていた。思っていたより早く単行本化されてめでたい。 本で読み始めるとぐーと引き込まれてあっというまに通読してしまっ...
初出はアメブロ「こうのの日々」(2023年12月19日〜2025年2月24日)、たまに見てはいたけれど、部分だけ切れ切れにみてもとりとめがなく、はやく本になれ〜と念じていた。思っていたより早く単行本化されてめでたい。 本で読み始めるとぐーと引き込まれてあっというまに通読してしまった。といっても、立ち止まり立ち止まり、考え考えだけれど、最後まで読んでもう一度はじめから読み直すと、あ、そういうことか、と。 わずか300文字弱の「般若心経」を頭から順に読み解いていく作品で、福井県のとある町のスーパーで働く女性の世界(モノクロ)と、はるか昔のインドでお釈迦様の弟子・舎利子と観自在菩薩が対話する世界(空色)を行き来しながら話が展開していくのがおみごと。 「色即是空空即是色」とか「羯諦羯諦波羅羯諦」といった有名なところしか知らなかったけれど、全体像(こうの史代というフィルター越しではあるけれど)がなんとなく見えてきた気がした。仏教って宗教というより哲学なんだなあと改めて思った。
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オビには12年ぶりの長編ストーリーとあるが実質的には短編的な内容といえる。宗教的な回心体験を描いているようにみえるが、これは逆で著者がカルマから抜け出すために経典をひもといて作品としてそれを実践しようとしたかたちになるのだろう。そのために、たとえば今村風子 作品のようなストレート...
オビには12年ぶりの長編ストーリーとあるが実質的には短編的な内容といえる。宗教的な回心体験を描いているようにみえるが、これは逆で著者がカルマから抜け出すために経典をひもといて作品としてそれを実践しようとしたかたちになるのだろう。そのために、たとえば今村風子 作品のようなストレートさとは異なって、これは宗教を「借りて」いるように感じられはしまいか。そしていまという時代は「伝統」に回帰すること自体があやうさをはらんでおり、自分がなぜその手段を選んだのかということが創作者には意識される必要性が大きくなっているだろう。 もう少し追記してみる。この作品が仏教経典を主軸に据えていながらどうもすっきりしないものを感じる理由は、おそらく著者の「我」が中途半端な形で露出しているからなのだろう。今村風子作品との根本的な違いもそれで、今村のように仏教という精神的コミュニティの中で湧き出てくる作品ではなく、著者自身の我欲をフィクションの中でどうにか折り合いをつけるために仏教経典が援用されているので、つまり根本的に経典の思想を理解できていないということになる。 たとえば手塚治虫「ブッダ」などもそのように宗教を扱いながら宗教的ではない、宗教を対象化した作品であるが、手塚とこうののスタンスは明らかに異なる。 ひとつは宗教の対象化の程度であり、ラストで「解脱できない」ブッダを描いた、ある意味デモニッシュとすらいえる手塚に対して、こうのは自分の外側から来た経典の教えに救いを求めようとしており、これは宗教に対するスタンスがあやういとも言える。 もう一つはパッション=受苦の表現である。手塚作品でこの点もっと典型的なのは「火の鳥 鳳凰編」であろう。同作品の連載されていた手塚肝煎りの「COM」は当時経営的にもボロボロで連載自体も断続的であり、作中人物の我王の受苦表現はそれを反映する面もありそうだが、作品を読んだだけではそれは全く分からない。一方、こうの作品ではいつものようにドラマ的な受苦表現は予防的に排除され、いわばアパシー的な(いつもの)「こうの節」になっているが、おそらくそれは作者と作品が十分に切り離されていないことのうらがえしでもある。これは「この世界の片隅に」連載時から引き継いだトラウマであり、著者はそこから解脱できていないのだろう。 そういう意味で今のところもっとも好感の持てる、ナイーブな表現ではあるが韜晦のない、ストレートな表現のみられるこうの史代作品は短編「ストポ」(「かっぱのねね子」収載)のように思われる。未読の向きには薦めたい。
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