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在野と独学の近代 の商品レビュー

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6件のお客様レビュー

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2025/07/19

南方熊楠を中心として、在野で研究することについて日英比較。完全に在野の人間にとっては興味深い一冊だった。 特にイギリスで熊楠がひたすら本をノートしていた話、そして周りに同じ方法で独学に励む人々がたくさんいたという話は大いに励まされた。なんとなく自分のやっていることが伝統的?な手法...

南方熊楠を中心として、在野で研究することについて日英比較。完全に在野の人間にとっては興味深い一冊だった。 特にイギリスで熊楠がひたすら本をノートしていた話、そして周りに同じ方法で独学に励む人々がたくさんいたという話は大いに励まされた。なんとなく自分のやっていることが伝統的?な手法なのだなーと。 三田村鳶魚について、はじめて知ることも多かった。郷里の偉人、松森胤保のことが出てきたのも嬉しい。

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2025/03/26

ダーウィン、マルクス、牧野富太郎、南方熊楠、三田村鳶魚など。大学に属さず独立した研究者たち。イギリスと日本の大学の位置づけ(官と民)の視点を踏まえて語る。 図書館の持つ文化への多大な貢献。ちょうど図書館を縮小しようとする多摩地区のとある市のニュースを見ていたので、深く考えさせられ...

ダーウィン、マルクス、牧野富太郎、南方熊楠、三田村鳶魚など。大学に属さず独立した研究者たち。イギリスと日本の大学の位置づけ(官と民)の視点を踏まえて語る。 図書館の持つ文化への多大な貢献。ちょうど図書館を縮小しようとする多摩地区のとある市のニュースを見ていたので、深く考えさせられた。一時的な予算削減でない文化の深みがきっとある。

Posted byブクログ

2025/03/13

 著者がこれまでずっと専門としてきた熊楠を話題の中心としつつ、大学の枠にとらわれず独学で学び続け、発表し続け、生きて死んでいった人々を辿り直し、これからの在野と官学の関係性を問う本。  熊楠も、ダーウィンも、三田村鳶魚も、恵まれた家庭環境に育った人であった。本人たちとしては苦汁を...

 著者がこれまでずっと専門としてきた熊楠を話題の中心としつつ、大学の枠にとらわれず独学で学び続け、発表し続け、生きて死んでいった人々を辿り直し、これからの在野と官学の関係性を問う本。  熊楠も、ダーウィンも、三田村鳶魚も、恵まれた家庭環境に育った人であった。本人たちとしては苦汁をなめた日々を過ごしたことであろうし、本人たちがこの世を去った今我々が彼らの書いたものを読んでもそこは共感できるのだが、日々働きながら、その隙間時間を学問にあてる、という生き方をしている身としては、全面的に共感できるとまでは言い難い。(でも、そうはいっても、この人たちは、私とは違って、お金持ちのボンボンだからなあ。おぼっちゃんだったんだからなあ。働かずに一生を過ごせたなんて、いいご身分だこと)と思ってしまうのである。  柳田國男や牧野富太郎は、熊楠との軋轢で知られる。が、それ以上に、彼ら自身の功績で今も語られ、参照され続ける。でも、それは無数のアマチュアの仕事と人生を、柳田や牧野が実質的には搾取しむしり取り続けた結果でもあった。NHKの朝ドラのように美しい生き方ではなかったのだ。  柳田や牧野と、熊楠との関係がどうして拗れたのか。著者は、柳田や牧野が、官と民のどちらでもあり、どちらでもない立場にあったことを一因とする。だが、より本質的な指摘は「植物学であろうが民俗学であろうが、情報収集の中心にいるのは、ひとりで充分なのである」(p145)という著者の指摘だ。ほんとにそうだ。そして、その、ひとりの名前だけ後世に遺り、彼に情報を提供した無数のアマチュアたちの名前は消え去り、忘れ去られていくのだ。じゃあ、彼ら彼女らの、学問への情熱は無意味だったのか。そんなわけはない。彼ら彼女らは、名前を遺すために学問に取り組んでいたわけではないだろう。愉しいから取り組んでいたのだろう。  大学や、大学の教員の価値が、つい最近までの日本では過剰に高かった。今、大学が潰れたり、ネット上で独学者たちが発表をしてそれが注目を集めたりしている。著者はそれを肯定的にとらえている。学問それ自体の厳密性やカテゴリーも、時代時代で変化していく。細分化の時代を経て、かつての博物学がもっていたような総合的な学問の発展に、私は期待したい。

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2025/03/09

 研究と言えば大学教授やシンクタンクの研究者が行うもの。このような固定観念を持っている人は多いだろう。在野で個人的に研究を行ういわゆる「アマチュア」がいないわけではないが、「プロ」としての研究者とは隔絶された世界にいると言っても過言ではない。しかし戦前にはその垣根を超えて研究に励...

 研究と言えば大学教授やシンクタンクの研究者が行うもの。このような固定観念を持っている人は多いだろう。在野で個人的に研究を行ういわゆる「アマチュア」がいないわけではないが、「プロ」としての研究者とは隔絶された世界にいると言っても過言ではない。しかし戦前にはその垣根を超えて研究に励んだ人がいる。本書はそういった在野の研究者に焦点を当てたものである。    本書では著者の研究テーマである南方熊楠を半ば狂言回しのような役割に据えることでダーウィン・マルクス・牧野富太郎・柳田国男らについて論じている。いずれも大学で王道的な教育を経て研究の道に入ったとは言い難く、彼らがどのようにして研究を進めていたか、またどのように研究の輪を広げていったかが論じられている。    本書で挙げられた人物の中で私が特に注目したのが2人にジェイムズ・マレーと福来友吉だ。マレーはオックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OED)の編纂に尽力した1人である。彼はほぼ独学で知識に関する素養を身につけ、OEDの完成に多大なる貢献を行った。福来友吉はオカルト本などでは有名なのでご存知の方も多いかもしれないが、かの「千里眼事件」後も研究者生命は絶たれず、長く研究の道に携わった。現代であれば社会的に抹殺されてもおかしくない一大スキャンダルではあるし、全く科学的根拠もないのだが、科学と心霊現象の境界があいまいだった時代における彼の社会的評価は非常に興味深い。誤解を恐れず言えば、心霊現象や超常現象を馬鹿真面目に論証しようとすることもまた科学とも言えるのではないだろうか。  現代における研究体制について考えされられるとともに、学ぶとは何かについても色々と考えされられる一冊となっている。

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2024/11/18
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

説明がわかりやすくて良かった。学術的な研究は、あくまでプロの学者がするものという先入観を崩されたような気がした。 南方熊楠と柳田国男が対照的なキャリアを歩みつつも、やり取りを深めともに日本における民俗学を確立させていく過程が興味深かった。

Posted byブクログ

2024/10/02

配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。 https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=01433952

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