親ガチャの哲学 の商品レビュー
「親ガチャ」を、与えられる環境だけに限定して語っている。 「親ガチャ」の最も、大きな影響は、主体の全てが、意思の主体が、所与のものであること。 肉体が神経が頭脳が、それらが生み出す思考が、与えられたものであり、主体が自ら選び、論理的には責任を負いうるものではないものと言えることに...
「親ガチャ」を、与えられる環境だけに限定して語っている。 「親ガチャ」の最も、大きな影響は、主体の全てが、意思の主体が、所与のものであること。 肉体が神経が頭脳が、それらが生み出す思考が、与えられたものであり、主体が自ら選び、論理的には責任を負いうるものではないものと言えることに、充分に配慮していると思えない書き出しに違和感。 デザイナーズベイビー、の説明では、遺伝子操作においては、出生前の意思を認めるが、そうでない場合は偶然、となんの留保もなく語る。 結婚、子供を持つこと、遺伝的形質に無関心な親がいるだろうか。 決定論と責任。 やはり決定論について語り始めた。 ハイデガーの議論を用いて説明をしてくれます。が、全然よくわからない。 最後は、思いやりを持とう。 か… 常識的だが、少し物足りない。 でもいい本ではあるんだろうと思う。
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以前に著者と棋士の糸谷哲郎八段の対談本を読んだことがあり、名前を知っていたので手に取ってみた。当時は糸谷八段が目当てだったんですけどね。 親ガチャという言葉の流行から現在の社会問題を哲学的な視点を交えて紐解いていくといった内容。 親ガチャという言葉は知っていたけれど、あまり深...
以前に著者と棋士の糸谷哲郎八段の対談本を読んだことがあり、名前を知っていたので手に取ってみた。当時は糸谷八段が目当てだったんですけどね。 親ガチャという言葉の流行から現在の社会問題を哲学的な視点を交えて紐解いていくといった内容。 親ガチャという言葉は知っていたけれど、あまり深く考えたことはなかったので新鮮だった。今まで日常から哲学を考えようといった本をいくつか読んできた。それぞれが工夫を凝らして書いてあるので身近に感じる部分もあったが、それでも想定している事象が「そんなことある?」と感じるようなものだったり「そこまで細かく考えなくともよくない?」となるような展開が多かった。やはり私にとっては哲学というとトロッコ問題だったりなんだか崇高で雲の上の話というイメージだった。本著はネットスラングや漫画(ワンピースやポケモン)から話が展開されており、それが流行する理由を社会問題や哲学の視点から考えていく。哲学を身近に感じるという意味では頭一つ抜けて良かったと思う。 自己肯定感という言葉の意味に関しても気づきがあった。最近よく聞く言葉だが、詰まるところどういった意味なのかいまいちわかっていなかった。肯定するとはAがBであると認識する(イエスと言える)という意味だと私は理解した。つまり良い部分も悪い部分もすべてを自分であると認めることが自己肯定感である。自己肯定感が本著でメインテーマのひとつである自分の人生を引き受けることに繋がるというのがよくわかった。 追記: 他の方の感想で親ガチャ的厭世観で苦しんでいる人=社会的格差で苦しんでいるという決めつけが過ぎるのではないかとあった。この等式は概ね事実なのかもしれないが、明確な根拠が本著では提示されていないことも併せて、鋭い指摘だと感じた。確かに私の中にもそういった決めつけがあった。本を読んでいるとそこに書かれていることはすべて正しいと思ってしまいがちだ。ある程度の批判的な視点の必要性を改めて感じた。
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親ガチャというある意味ネットスラングとして用いられている言葉をキーワードとして様々な近代的な事象を紐解いていく、かなり易しい哲学書だと思いました。 人には思想や価値観が人それぞれに有していて、それを否定することは許されない。 自分の価値観が絶対に正しい、別の価値観は間違っているか...
親ガチャというある意味ネットスラングとして用いられている言葉をキーワードとして様々な近代的な事象を紐解いていく、かなり易しい哲学書だと思いました。 人には思想や価値観が人それぞれに有していて、それを否定することは許されない。 自分の価値観が絶対に正しい、別の価値観は間違っているから否定してよいという態度を「残酷さ」という。 もちろん間違ってる価値観はあるかもしれないがこの態度という言葉に着目すると、揺るぎない確信さえあれば何を否定しても構わないと読み取りました。 自身の価値観も他人の価値観と同じように揺らぐものだと認識し、対話をするということが親ガチャ的厭世観を持つ彼らを救う唯一の方法ではないのでしょうか。 対話とは私が私であるという感覚、つまり自己肯定感を意識できる方法だと紹介していたと思います。 自己を肯定するとは何か、例えてみるとすれば「計算が苦手な自分」「身長が低い自分」「足が速い自分」など自分という存在を認識して受け入れることと私は理解しました。 自己肯定感感というものは何か他人と比べて優れていたり、劣っていたりするものだと我々は勘違いしていましたが、それはただの優越感や劣等感であり、自己肯定感とは異なるものでした。 私が私であるためには他者と対話をし、自己肯定感を高め、対話によってさまざまな価値観と向き合うこと。 我々が求める生活を続ける方法だと私は思います。
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親ガチャの関して様々な議論をまとめた本書には、哲学的な示唆に富む考察がふんだんに出てくるが、一般の人間にとって哲学的なことを考察するチャンスは非常に少ないと感じている.自分の責任と他者との関わりの中で生きていく人間が連帯を確立していくことで一つの解決策を見出して行けると提案してい...
親ガチャの関して様々な議論をまとめた本書には、哲学的な示唆に富む考察がふんだんに出てくるが、一般の人間にとって哲学的なことを考察するチャンスは非常に少ないと感じている.自分の責任と他者との関わりの中で生きていく人間が連帯を確立していくことで一つの解決策を見出して行けると提案している部分が気になった.p201: すでの存在している<われわれ>へと帰属させるのではなく、人々がすでに所属している<われわれ>のなかに、それまで<われわれ>ではなかった人々を含めていく、そうして<われわれ>ではなかった人々を含めていく、そうして<われわれ>の外縁を拡張していく.
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https://www.nikkei.com/article/DGKKZO82255310T20C24A7CE0000/
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親ガチャの厭世観と、責任や自己肯定感、対話などを哲学の視点から検討するという内容。 さらりと書いてあるが、それぞれが深い
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漫画から哲学まで分かりやすく、書かれていて読みやすかった 親ガチャ的厭世観は誰かが聴いてくれず孤立している時に生まれてくる。誰かのせいにするのは簡単だが、そのように思ってる人に寄り添わず、無視してはいけない。 辛い気持ちを持ってる人に対してひとりではないことを話し合える機会や場所...
漫画から哲学まで分かりやすく、書かれていて読みやすかった 親ガチャ的厭世観は誰かが聴いてくれず孤立している時に生まれてくる。誰かのせいにするのは簡単だが、そのように思ってる人に寄り添わず、無視してはいけない。 辛い気持ちを持ってる人に対してひとりではないことを話し合える機会や場所がより増えていけば、親ガチャ的厭世観はなくなっていくと思った。
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『親ガチャの哲学』 2024年5月23日読了 昨今よく聞くようになった「親ガチャ」という言葉。 「子どもは親を選べず、親によって子の人生が変わること」を端的に示した言葉である。この言葉は俗にいう「ハズレ」を引いた人が使用することが多く、本書の中でこの概念は悲観的とも厭世的ともさ...
『親ガチャの哲学』 2024年5月23日読了 昨今よく聞くようになった「親ガチャ」という言葉。 「子どもは親を選べず、親によって子の人生が変わること」を端的に示した言葉である。この言葉は俗にいう「ハズレ」を引いた人が使用することが多く、本書の中でこの概念は悲観的とも厭世的ともされる。 本書は「現代社会は親ガチャ的厭世感に覆われている」ということを出発点とし、「無敵の人」や「反出生主義」などのキーワードに思考を膨らませながら進んでいく。『ワンピース』や『進撃の巨人』といった人気漫画やポケモンなど、具体的に想像しやすい例えを用いながら話が進むので、大変わかりやすく一気に読むことができた。 本書がおもしろいのは、「あなたが苦しんでいるのは、あなたの努力が足りなかったから」などという安易な「自己責任論」を持ち込まない点だ。苦境に陥り思考停止せざるを得ない人、自分自身から逃避しなければならない人が、どうしたら自分の生を引き受けられるかを、主にハイデガーの思想を用いて以下のように述べている。 「私」が「私」であることは、誰のせいにもできないのです。だからこそ、私たちは思うままにならない人生であっても、その人生が自分のものだと思うことができる。 (中略)このように自分自身を引き受けることの真価は、自分の人生をよりよいものにしようと配慮すること、自分を尊重しようとする態度を可能にする、という点にあるのではないでしょうか。 「自分の人生を引き受ける」とは、「自分を知り、自分の幸福を追い求める」ということだと思う。 SNSが急速に発展した現代。他者と自分の人生を容易に比較できるようになってしまった。だからこそ、わかりやすい成功への諦めがつかなくなり、自分が思い描く幸福を追うことが難しくなったのではないだろうか。だれかと同じ成功を求めすぎるがために、自分の幸福がわからなくなってしまい、だれかの成功とは程遠い自分の人生を、引き受けらなくなっているのかもしれない。 また本書では、自分自身と向き合うためには、他者との対話が必要と説く。私たちは誰かが自分のことを受け止めてくれるという信頼感の中で、はじめて自分と向き合えるとしている。 やはり「誰のせいにもできない人生」を歩むというのは、不安で恐ろしいことだと思う。だからこそ一時であっても自分の話を聞いてくれる(=自分の存在を認めてくれる)他者や共同体の存在は心強い。ここでは現代における実例として「哲学カフェ」が上がっていた。つながりの少ない現代社会において、なにかしらの共同体に(一時的でもいいから)属し、話を聞いてもらうというのは、今を生きていくコツなのかもしれない。
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親ガチャ的厭世観が現代日本社会で流行したのは、苦境に陥った人々が、自らの苦しみへの対処として選び取られたからではないか、というところから考察が始まる。 一時の安らぎはあるだろう。しかしどんなに努力しても希望はない、という絶望から救われることがない。 ▶︎子どもが親に「生んでくれ...
親ガチャ的厭世観が現代日本社会で流行したのは、苦境に陥った人々が、自らの苦しみへの対処として選び取られたからではないか、というところから考察が始まる。 一時の安らぎはあるだろう。しかしどんなに努力しても希望はない、という絶望から救われることがない。 ▶︎子どもが親に「生んでくれなんて頼んでない」「生まれたくて生まれたのではない」と言う時、子どもは傷つき、自分の力ではどうにもならない苦しみを抱えている このことに思い至らなかった。自分の力ではどうにもならない苦しみに自暴自棄になっていたのか。 私は今までも、今でも反出生主義に魅力を感じてしまう。 でもそれは、生まれてしまったからには、こう生きねばならない、こうあらねばならない、というmust思考と、現実との乖離が自分の力ではどうにもならなかったからだろうと思う。 筆者は自己責任論を否定しながらも、個人が幸福に生きるためには自分を引き受けることも必要だと説く。 「私」が「私」であることの責任を引き受けられるようになるにはどうしたらよいか、ハイデガーから展開する「自由意志を前提としない責任」を理解すること、アーレントの「現れの空間」の必要性を論じる。 私も反出生主義に魅力を感じながらも、自分を引き受けたくて、でも引き受け方が分からなかった。 すべては偶然と説いた九鬼に立ち返りたい。 対話の場がもっとあればいいのに。
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親ガチャというキャッチーなところから入って自己や他者について考えられてよかった。親ガチャ的厭世観が一種の逃げというか防衛本能というか。
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