広重ぶるう の商品レビュー
歌川広重の半生。 北斎より四十年弱遅れて世に出た広重。 北斎も富嶽三十六景に使った西洋渡来の新しい絵の具ベロ藍による青のグラデーションを駆使した風景画、名所絵で名を成す。 広重の人柄が本書の通りかは不明だが、作者はテンポよく生き生きとした人物像を描き出す。 北斎、広重らの...
歌川広重の半生。 北斎より四十年弱遅れて世に出た広重。 北斎も富嶽三十六景に使った西洋渡来の新しい絵の具ベロ藍による青のグラデーションを駆使した風景画、名所絵で名を成す。 広重の人柄が本書の通りかは不明だが、作者はテンポよく生き生きとした人物像を描き出す。 北斎、広重らの浮世絵がゴッホたち印象派の画家に与えた影響は有名だが、遠近法、ベロ藍など西洋絵画も当時の浮世絵に大きく影響していた。 会ったことはなくても、お互いが作品を通して交流していたと思うと興味深い。
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周りの人が,みんないい人! 冒頭の喜三郎も,厳しいけど,広重のことを考えているのがわかるし,2人の妻もタイプは違うけど,それぞれに広重思い. それに3代豊国!最初からすごい威圧感で,いやな奴かと思いきや,ナント「わ印」の描き方指南までしてくれるなんて... それだけご本人が好かれ...
周りの人が,みんないい人! 冒頭の喜三郎も,厳しいけど,広重のことを考えているのがわかるし,2人の妻もタイプは違うけど,それぞれに広重思い. それに3代豊国!最初からすごい威圧感で,いやな奴かと思いきや,ナント「わ印」の描き方指南までしてくれるなんて... それだけご本人が好かれていた,ということでしょうか. 「ヨイ豊」の主人公清太郎も時々顔出し.堅物すぎて、豊国の大名跡を継げるのか,広重に心配されている^^; 鎮平と寅吉,広重の後継(と養女の辰)を巡って,色々とある仲だよね.
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昔、永谷園のお茶づけ海苔に添付されていた「東海道五拾三次」カード(ぼくの母が集めていたがコンプならず)。本作はその作者である歌川広重の生涯を描いた作品だ。 歌川豊広門下にありながら美人画も役者絵も巧く描けず悶々としていた頃、“ぷるしあんぶるう”(ベルリンの藍=ベロ藍)という非凡な...
昔、永谷園のお茶づけ海苔に添付されていた「東海道五拾三次」カード(ぼくの母が集めていたがコンプならず)。本作はその作者である歌川広重の生涯を描いた作品だ。 歌川豊広門下にありながら美人画も役者絵も巧く描けず悶々としていた頃、“ぷるしあんぶるう”(ベルリンの藍=ベロ藍)という非凡な色に出会ったことで、日本においても下に見られていた名所絵(風景画)を志す。 途中までは、あまりにわがまま勝手な重右衛門の言動にうんざりし嫌気が差すが、第三章で起きる“あること”をきっかけとした気付きと、その後の彼の変化に涙があふれた。 江戸時代に限らず、実在の芸術家や学者を描いた作品を最近よく読むが、どいつもこいつも人としてどうなんだという方が多い気がする。時代なのか、日本という土地柄なのか、はたまた奇人変人でなければ偉業を成し遂げられないのか……。広重さんはそんなにひどくはなかったけどね。
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後に海外で「ヒロシゲブルー」と呼ばれるベロ藍(プルシアンブルー)と出会うまでの話かと思ったら、歌川広重の遅咲き人生を描いた話だった。 当時名所絵は美人画・役者絵などと比べると格下に位置付けられていて画料も低かったらしい。 版元たちに言わせれば『そこにあるものを描けばいい』からら...
後に海外で「ヒロシゲブルー」と呼ばれるベロ藍(プルシアンブルー)と出会うまでの話かと思ったら、歌川広重の遅咲き人生を描いた話だった。 当時名所絵は美人画・役者絵などと比べると格下に位置付けられていて画料も低かったらしい。 版元たちに言わせれば『そこにあるものを描けばいい』かららしいが、それだけならこれほど大当たりはしない。彼の名所絵は『郷愁』や『情感』を与える、他にはない絵だった。 だがそこにたどり着くまでの道のりは長かった。『東海道五拾三次』という大ヒット作を出すまで二十年以上掛かっていたとは知らなかった。 火消同心の家に生まれ13歳で家督を継いだが、折り合いの悪い祖父に反発し絵師になろうと決意。売れっ子絵師となって堂々家を出ようという目論見はなかなか叶わない。同じ歌川派の国貞や国芳が売れていく一方で、美人画も役者絵も当たらない広重は腹立ちまぎれに絵は内職だと言って版元を怒らせている。 この版元〈栄林堂〉の喜三郎が素敵な人だった。一番苦しい時期に喜三郎だけが広重に仕事をくれ、厳しいながらもアドバイスをしてくれた。広重の師匠・歌川豊広が死に際に絵を託したのも分かる。 喜三郎のおかげで広重は名所絵を描くことにし、一気に売れっ子絵師になった。だが広重が売れると喜三郎は全く顔を見せない。 何と潔い人なのか。私ならあの広重に名所絵を描けとアドバイスしたのは私だよと大いに喧伝し商売に利用するだろうに。 素敵な人と言えばもう一人、最初の妻・加代もまさに糟糠の妻だった。火消同心のわずかな禄でやりくりする貧乏暮らし。なのに広重は料理屋だ書画会だ、旅だと気ままに金を使う。嫁入り道具のほとんどを質入れし、旧知の火消与力・岡島にも無心するが広重には内緒にしてくれと頼む。 これは『ボタニカ』の牧野富太郎と同じパターンか…と心配になったが、幸い広重は加代一筋だし売れてからは質入れしたものを請け出したし大いに感謝していた。 絵の仕事に口は出さないが、夫・広重がなぜ美人画や役者絵が苦手なのか、亡き師匠・豊広が何を広重に伝えようとしたのかを正確に理解した人だった。 北斎や国貞との絵に対する考え方の違い、絵師とは何ぞやという答えの違いも面白い。同じ風景でも描く人が違えば全く違う絵になる。 広重と国貞(三代目豊国)がタッグを組んだ作品があったとは知らなかった。国貞が気さくで良い人だったのが意外(失礼)。 北斎の家を覗いて余りの汚さにゾッとするシーンが面白い。広重はどれだけ貧乏していようと朝湯を欠かさないほどきれい好きだし、絵筆一本位置が変わっても気付くというほど几帳面な人だった。 東海道、甲州、京都など全国各地の名所絵を手掛けた広重だが、彼が真に描きたいのは江戸だった。 長年火消同心として江戸の火事と闘ってきた彼は、何度も江戸が焼け落ちた様を見てきた。安政年間には大地震や大水害もあって再び江戸は無残な姿になった。 彼が他の仕事を後回しにしてまで『名所江戸百景』に拘ったのは『おれたちの江戸はこうだったんだという姿』を残したかったからだった。 その裏には寛治という素晴らしい技術を持った摺師がいたことも忘れてはいけない。広重が表現したい江戸の空をぼかしという技術で表現してくれた。 また労咳で死期が近い最初の弟子・重昌(昌吉)のために、後々まで残る肉筆画の仕事を手伝わせるなど弟子思いのところも見せてくれた。そのきっかけをくれたのがまたまた喜三郎。 最後はしんみりではなくカラッと、きれい好きな広重らしい締め方だったのも良かった。 絵師専門となっても火事が起これば火消同心魂が燃え上がる。鳥の群れの動きで風の変化を読むなんて、時代は違うが今村祥吾さんのぼろ鳶・松永源吾に聞かせたい。
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