橙が実るまで の商品レビュー
メメさんのレビューを読んで、早速図書館で予約、手に取りました。 読みながら、自分の故郷を 祖父母と過ごした日々やご近所の方々を思い出しました。 読みながら、どこか懐かしく感じました。 小学校登下校中、苺のビニールハウスや田植え等の作業の途中、「おはよう!学校まで遠かねぇ〜、ラ...
メメさんのレビューを読んで、早速図書館で予約、手に取りました。 読みながら、自分の故郷を 祖父母と過ごした日々やご近所の方々を思い出しました。 読みながら、どこか懐かしく感じました。 小学校登下校中、苺のビニールハウスや田植え等の作業の途中、「おはよう!学校まで遠かねぇ〜、ランドセルの泳ぎよぉよ。」 「魚屋の孫ちゃん!今帰り?」 「苺ば、持って行かんね!」と私が誰の孫か子どもかみんなが知ってるように声をかけてもらっていたこと等など。魚屋の孫って、私は記憶がないけれど、祖母が魚の行商をしていたことやどんな風な働きぶりだったか等、私に記憶がない分、他の方々が私に話をしてくれた その話の記憶の祖母だったり。 学校から帰ってきて、しばらくすると18時ちょうどのポンと祖父がビールの栓を抜く音がしていたなという記憶等。 私は、愛されていたんだなぁと思える思い出が沢山蘇ってきました。 読んでいて、かなり久しぶりに母のすりおろしリンゴが食べたいと思いました。病気がちな私を病気に負けるな!といつも厳しかったのですが、発熱すると必ず何が食べたいか何だったら食べれるか聞いてくれて、すりおろしリンゴを食べさせてくれていました。 明日からは、家族や他の人特に今指導中の新人さんに、しばらく優しく出来そうです。 “白いワンピース”の後の写真と“遠い記憶”の後の写真が好きです。 この1冊に出会えたことに感謝!
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『橙が実るまで』 文 田尻久子 写真 川内倫子 【巻末より、一部抜粋して】 著者の田尻久子さんは、1969年、熊本県生まれ、2001年に雑貨と喫茶店の店「orange」を開業、2008年に隣の空き店舗を借り増して「橙書店」を開かれています。2016年より文芸誌『アルテリ』の発行...
『橙が実るまで』 文 田尻久子 写真 川内倫子 【巻末より、一部抜粋して】 著者の田尻久子さんは、1969年、熊本県生まれ、2001年に雑貨と喫茶店の店「orange」を開業、2008年に隣の空き店舗を借り増して「橙書店」を開かれています。2016年より文芸誌『アルテリ』の発行・責任編集をつとめる。 写真は川内倫子さん。1972年生まれ、2002年に第27回木村伊兵衛写真賞受賞、2009年に第25回ICPインフィニティ・アワード芸術部門を受賞するなど、国際的にも高い評価を受け、国内外で数多くの展覧会を行う。 本書は、雑誌『switch』vol.36no.7(2018年7月)〜vol.39no.10(2021年10月)に連載された「橙が実るまで」に加筆・修正されたものになります。 疲れて帰宅し、届いていたこの本を開くと、一行目からやられました。家事をしなければなりませんでしたが、涙が溢れました。 (「はけみや」より) ”仏んごたるひとだったな。ほんなこつ。” 祖父のお葬式の場面での、一言です。 ”誰ともなくいっていた。声を荒げることなどなく、日々を淡々と過ごすひとだった。” 朝起きたら先ず家の周りを掃き掃除していた祖父、オイルショックの時の買い占め騒動が忘れられなかったようでいつでもトイレットペーパーやティッシュペーパーを買いだめしていた祖父、野球中継を見ながら晩酌と食事をし、寝ていると思ってテレビを消すと、まだ見よる、と一瞬目を覚ます祖父。と、ほんの数行ですが、語られている”祖父”の姿に、私は幼き日の家族の団欒を一瞬で呼び起こされました。(もちろん、違いはありますが。私は九州出身なので、お国言葉が似ていることもあって、大きく心を揺さぶられたのかもしれません。) 40のエッセイ全てに、川内倫子さんの写真が添えられています。静かに、語りかけられうような文章が続きます。心と記憶に響き、視覚からもより鮮明に深く味わえる作品になっています。 あとがき著者のことば『連鎖する記憶』より、 ”記憶というのは不思議で他人の記憶でも懐かしさを感じることができる。(中略)読む人が、写真や文章が語りかける物語に自分を重ね、そこに新たな物語が生まれるだろう。” きっと手の取られた方の記憶に触れる、特別な一冊になるのではないでしょうか。私もゆっくりと、大切に味わいたいと思います。ありがとうございました。
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書店主の田尻さんと写真家の川内倫子さんによる写文集(←こんな言い方するのね)。熊本の書店・橙書店の田尻さんの書いた子どもの頃や家族についてのエッセイに川内さんが自身の撮影した写真で応えていく不思議な構成。記憶や想いは言葉に、場所や空気は写真になるのだね。熊本のその場所で濃く深く生...
書店主の田尻さんと写真家の川内倫子さんによる写文集(←こんな言い方するのね)。熊本の書店・橙書店の田尻さんの書いた子どもの頃や家族についてのエッセイに川内さんが自身の撮影した写真で応えていく不思議な構成。記憶や想いは言葉に、場所や空気は写真になるのだね。熊本のその場所で濃く深く生きているひとりの人間の物語だった。
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懐かしい子どもの頃が、よみがえってきました。暖かく、しみじみとした中に、不安や恐怖も混じっていて。子ども時代って、甘いだけではなかったことを思い出しました。
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熊本で「橙書店」と喫茶店を営みながら文芸誌「アルテリ」の編集も行っている著者のエッセイ。私も同時代を生きた年齢であの頃こういうこと(蒸発や教師と生徒の反発しあう関係性)がよくあったよなあと思った。著者は母親の蒸発など中学生の時期から理不尽なことを沢山経験してきたと思うが、本書の中...
熊本で「橙書店」と喫茶店を営みながら文芸誌「アルテリ」の編集も行っている著者のエッセイ。私も同時代を生きた年齢であの頃こういうこと(蒸発や教師と生徒の反発しあう関係性)がよくあったよなあと思った。著者は母親の蒸発など中学生の時期から理不尽なことを沢山経験してきたと思うが、本書の中では肩肘張らずにその時傍に居る人たちと手を繋いでそれらを乗り越えてこられたように見えた。文章も特に幸不幸を強調することなく書かれていて心地よかった。
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図書館で予約してあったらしく手に取った.どこかで本書の紹介文を読み,引っかかりがあったので予約していたのだと思うが,予約の順番がまわってきたときにはその存在すら忘れていた. 孤独と孤独をやさしくかつ客観的に見守るような眼差し.自分の過去みつめる視線に懐かしい孤独感を感じた.たぶ...
図書館で予約してあったらしく手に取った.どこかで本書の紹介文を読み,引っかかりがあったので予約していたのだと思うが,予約の順番がまわってきたときにはその存在すら忘れていた. 孤独と孤独をやさしくかつ客観的に見守るような眼差し.自分の過去みつめる視線に懐かしい孤独感を感じた.たぶん誰もが子どもの頃に感じたであろう孤独.そんなことを読んいる間に思い出した.
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『夏休みのすいか、親戚のおにいちゃんとした肝試し、連れ合いと見上げた花火。記憶は、ふとしたはずみに心に触れる。過去に引きずられたいとは思わないが、記憶にいだかれることは、ときに必要なのだろう。いつかひとりで花火を見る日が来るかもしれない。そのときは、きっと、記憶に身をゆだねながら...
『夏休みのすいか、親戚のおにいちゃんとした肝試し、連れ合いと見上げた花火。記憶は、ふとしたはずみに心に触れる。過去に引きずられたいとは思わないが、記憶にいだかれることは、ときに必要なのだろう。いつかひとりで花火を見る日が来るかもしれない。そのときは、きっと、記憶に身をゆだねながら見るに違いない』―『なつやすみ』 ふっと、「言葉だって消耗品 思い出は底がある」という歌のワンフレーズが頭の中を過[よ]ぎってゆく。確かに呼び起こされた記憶は、言葉という強い光によって印画紙に投映され定着する代わりに、元のネガの陰影を少しばかり奪ってしまうようにも思う。そして言葉に置き換える行為によって、それは彩色し直され、色付けされた記憶が元の単色の記憶を上書きし置き換えてしまっている感覚を覚えないでもない。そんな心配を思わずしてしまいたくなる程に、繰り返し思い出を語る橙書店の田尻久子は、過去も未来も凝集されたような自身の人生のひとコマを惜しげもなくさらけ出してみせる。そして、そのセピア色になりかけた記憶の映像は、極めて個人的な思い出である筈だが、不思議と読むものの記憶も喚起する。そんな感覚を覚えるのは、ひょっとすると、幼少の頃の思い出の写真が白黒である世代に限られることなのかも知れない。あるいは、汲み取り式の便所の薄暗さを、舗装されていない道路の水たまりに浮かぶ虹色を、あるいは、夏の日の溶けて柔らかくなったアスファルトや木製の電柱の立つ道を知る世代に限られるのかも知れない。けれど、彼女の綴る文章から立ち上がる世界は、確かに見知ったものが呼び覚まされたものであるような気になるのだ。 そして、その言葉に呼び起こされた世界を写し出したような川内倫子の写真が小さな物語の時間を更に引き延ばす。記憶には決してなかった筈の映像が、あいまいな光が、時に闇を見つめるような焦点の当たる構図で、そっと、挿し込まれる。そう、それは飽くまで、そっと、と表現されるべきもの。元々、川内倫子の写真には、強烈に訴えるようなモチーフが写し撮られるタイプの写真が少ないように思うが、このエッセイ集に挿し込まれた写真は、特に、余白が多く、時にピントがずらされ、観るものの意識がさまよってしまうものが多い。それは日常というものの、ただ在るようにして在る自然さとその不思議さを同時に写し撮るような写真。田尻久子のエッセイが明らかにするように、誰かにとってのありふれた日常は多くの理由の結果だけれど、その理由は質さなければ見えてこないという訳でもない。もちろん、知れば知ったで何かが変えられるものかどうかも定かではないけれど、ありふれた、と思い込んでいるとするすると指の間を流れ落ちていく砂のように跡形も無く存在しないことになってしまう淡いもの。失ってしまっても確かに指に残るその存在のもたらす喪失感に抗いながら前を向く気持ち、それがエッセイと写真の間で交わされているようだ。
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