激動日本左翼史 の商品レビュー
池上彰、佐藤優著『激動日本左翼史 : 学生運動と過激派1960-1972 (講談社現代新書 ; 2643)』(講談社) 2021.12発行 国民の生活が豊かになっていくと、人は保守化していく。ところが、日本社会党や日本共産党などの既成左翼や新左翼は、内ゲバを繰り返しながら、どん...
池上彰、佐藤優著『激動日本左翼史 : 学生運動と過激派1960-1972 (講談社現代新書 ; 2643)』(講談社) 2021.12発行 国民の生活が豊かになっていくと、人は保守化していく。ところが、日本社会党や日本共産党などの既成左翼や新左翼は、内ゲバを繰り返しながら、どんどん過激化していき、およそノンポリがついて行ける組織ではなくなってしまった。 その結果、日本社会党や新左翼は支持を失い、スターリン主義政党である日本共産党だけが今日まで残ってしまった。何とも情けない話である。 2023.12.17読了 URL:https://id.ndl.go.jp/bib/031859931
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ずっと引っかかてたけど知らずに済ませてきたこと。社会党と共産党の違い、新左翼、ノンポリの誕生と政治への無関心など頭の中を整理できた。 新左翼の失敗を、何もしないおじさんの存在を許す「官僚化」ができなかったことに結論づけるのは新鮮。
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理想を掲げた学生運動と過激派の行く末は、内ゲバ、容赦ない殺人、テロ行為。こんな歴史が日本にもあったのかと思ってしまう。 それにしても、集団心理や同調圧力は怖い。自分が1960-1970に学生だったら、どう振る舞っていただろう。
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60年安保から60年代の社・共両党と新左翼のヘゲモニー争い、そして1968年からの東大全共闘、日大全共闘の活動、この時代は市民と信頼関係があったにも関わらず、なぜ新左翼が市民から遊離していかざるを得なかったのか。共産党が言うように「権力によって泳がされ、利用された」との批判はそ...
60年安保から60年代の社・共両党と新左翼のヘゲモニー争い、そして1968年からの東大全共闘、日大全共闘の活動、この時代は市民と信頼関係があったにも関わらず、なぜ新左翼が市民から遊離していかざるを得なかったのか。共産党が言うように「権力によって泳がされ、利用された」との批判はその意味で当たっている。わずか50数年前の出来事が今は理想に生きる人たちが多く存在した夢のような時代に感じられる。その中では当時の共産党の姿勢が理想とは遠く、党派を優先する姿勢に終始し、混乱を与えていたには改めて残念に思う。いまや左翼は共産党しか存在しない中で、リベラルな主張をしているように感じるが、警戒すべき存在だと改めて感じた。 二人の最後近くの対話が正に的を得ている。 佐藤)権力側との力の差を考えれば、火炎瓶や手製爆弾では自 衛隊はもとより機動隊にも対抗できないのですから。新左翼運動は現代から振り返ればすべて「ロマン主義」の一言で括れてしまう。 池上)ロマン主義であるがゆえにますます現実から遊離していった。 佐藤)リーダーたち一人ひとり個性が豊かで、それぞれの党派にも個性がある。それは彼らが、ゆくゆくは日本の中枢から動かせるくらいの 知的能力も意欲も備えながら、社会の矛盾を正したい一心で自分の人生全部を棒に振る覚悟でロマンを追求した。既存体制の中にある知識人の欺瞞、大学の中の親分子分関係にもとづく空虚なヒエラルキー、そうしたものすべてに異議申し立てをすること で、人間の解放をしようと本気で目指していた。そういう意味では、自分一人の栄達だけで満足できてしまえる21世紀型のエリートではなかった。そこはやはり評価しなければいけない点だ。 池上)ある種のノブレス・オブリージュ(高貴な者が宿命的に負う義務)を自覚していたとも 言える。
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1960年から1972年の出来事が紹介されており、学生運動が新左翼を生み、連合赤軍事件によりトドメをさされる、言わば日本左翼の黒歴史が描かれており、革マル派と中核との違いが理解できた。 また、共産党との社会的区別もわかりやすかった。
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新左翼の時代について振り返る対談。 「新左翼の離合集散に関する細かい経緯を理解する必要は全くありません。」 と佐藤氏がいきなり述べているので、私としては拍子抜けであった。全体の流れを把握すれば十分、ということであれば本書に新たな知見を期待する必要が(個人的には)なくなってしまう。...
新左翼の時代について振り返る対談。 「新左翼の離合集散に関する細かい経緯を理解する必要は全くありません。」 と佐藤氏がいきなり述べているので、私としては拍子抜けであった。全体の流れを把握すれば十分、ということであれば本書に新たな知見を期待する必要が(個人的には)なくなってしまう。 「閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝つに決まっている。」 という池上氏の総括が新左翼の過激化を一言で言い表していて(ただし、ナショナリズムも同様であると述べている)、ほぼそれで済んでしまう。 そもそも新左翼自体が左翼活動の先鋭化の表れであるわけなのだし。 そういう意味では、前巻「真説」で述べられた戦後から50年代の左翼運動からの連続性でとらえるべきだ。序章でまとめられた「前巻のまとめ」がとても整っていて、理解しやすい。 佐藤氏が述べている「左翼というのは始まりの時点では非常に知的でありながらも、ある地点まで行ってしまうと思考が止まる仕組みがどこかに内包されていると思います。そしてその仕組みは、リベラルではなく左翼の思想の中のどこかにあるはず」というのは、その通りだと思う。 ただし、左翼というよりは「革新」(保守との相対的な位置づけ)の性質ではないかと思う。 現実社会のドロドロした因縁を捨象して、理論的な正しさを追求しようとする以上、理論面で先頭を走る人間が現れるのは当然だろう。そして、全員が先端理論を理解できるわけでもないし意見を異にする者も現れるから、立ち止まって理論を整理したり理解を放棄する者が現れるのだろう(本書の語彙でいうならば「外部注入論」が生まれる背景はこれだろう)。
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以下、引用 S (略)あるいは日本の新左翼運動が残したのは、島耕作型のサラリーマンを大量生産したことかもしれません。 (略) S 個としての自立にはこだわるけれど、目の前の利益にだけ執着するという生き方です。島耕作は社内の派閥に属さないけれど仕事はでき、出世のチャンスも逃さない...
以下、引用 S (略)あるいは日本の新左翼運動が残したのは、島耕作型のサラリーマンを大量生産したことかもしれません。 (略) S 個としての自立にはこだわるけれど、目の前の利益にだけ執着するという生き方です。島耕作は社内の派閥に属さないけれど仕事はでき、出世のチャンスも逃さないという男でしょう?新左翼の連中は信頼していた仲間に裏切られ、党も何も信用できず頼れるのは自分だけ、という局面を程度の差こそあれ経験しているから、運動から身を引いた後にこのタイプのサラリーマンになった人たちは多かったはずです。もうひとつは「最後に信用できるのは家族だけ」という意識から発する生活保守主義です。政治など社会の問題に対して、自分たちと地続きの問題として真剣に捉えず、たまに話題とすることがあっても居酒屋論議レベルの無責任な議論しかしない。「政治」や「社会」と、自分たちの「生活」を完全に切り離して自分の生活だけ大事にし、あとは自分のキャリアアップのためだけに頑張る。そういう新自由主義の母体を造ったという意味では新左翼運動の影響は大いにあったと思います。 I 日本人を「総ノンポリ」化してしまった面は間違いなくあったでしょうね。 S 公安は情報を集めたうえであえてどちらも放置し、結果的に中核派だけでなく、このような事件に関しては被害者側になった革マルも、両方社会から遊離するように仕向けるんです。権力側はそれくらいのことは常にやっていますし、権力というのはそういうものです。だから結局、生存のための戦略という点に限っていえば、新左翼よりも権力側のほうが知恵があったということでしょう。
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家に持っておきたい本ですが、 左翼史の中で最も吐き気がする部分であり、 個人的には思想として資本主義に疑問を感じていても、一緒にされなくないという思いが湧いてしまうのはこういう暗い歴史に対する活動家の捉え方に触れた時だと率直に思う。
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この時代の特徴として、学生を中心とする社会運動が盛り上がり、良くも悪くも耳目を集める運動(犯罪)が起きたのに比べ、代議制民主主義の場で早くも革新勢力の停滞が始まった事。 市民は生活に根差した高度経済成長を認めそれを主導した保守勢力を総論で支持し、革新勢力は折々の各論の支持を取り...
この時代の特徴として、学生を中心とする社会運動が盛り上がり、良くも悪くも耳目を集める運動(犯罪)が起きたのに比べ、代議制民主主義の場で早くも革新勢力の停滞が始まった事。 市民は生活に根差した高度経済成長を認めそれを主導した保守勢力を総論で支持し、革新勢力は折々の各論の支持を取り付けるに留まった。 その社会運動も先鋭化すればする程、各論の支持すら失ってしまう。冷静な判断が出来る間に気付けば戻る事も出来たのだろうが、一線を越えてしまうともう戻るに戻れない。後は破滅のみ。 谷島屋書店浜松本店にて購入。
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まあ、二人の対談なので分かり易いのはもちろんなのですが、共産党批判でもある。政治的な立場はリベラルからの左翼批判かな。
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