戦争の記憶 の商品レビュー
歴史を(特に「先の大戦」の歴史を)学ぶ意義を再認識させてくれる良書です。 本来は「事実」であるはずの歴史の「認識」をめぐる対立が、戦後80年近く経っても今なお続いているのは何故なのか。 「歴史」や「記録」とは異なる、当事国同士の/当事者の/政府の/国民の「記憶」に着目した切り口...
歴史を(特に「先の大戦」の歴史を)学ぶ意義を再認識させてくれる良書です。 本来は「事実」であるはずの歴史の「認識」をめぐる対立が、戦後80年近く経っても今なお続いているのは何故なのか。 「歴史」や「記録」とは異なる、当事国同士の/当事者の/政府の/国民の「記憶」に着目した切り口は新鮮でしたし、説得力がありました。 そしてその「記憶」がどのように形成され、どのように作用し、そしてどのように変化してゆくのか。 「過去から学ぶ」とはどういうことか、未来をどう形作ってゆくべきか、とても示唆に富んだ読書でした。 教授と学生の対話形式の講義を書籍化したものなので文章もわかりやすく、学生も韓国・日本・アメリカなど多様な背景を持つ人が集まってオープンな対話をしており、彼らの一つひとつの発言からも学ぶことが多かったです。 先の大戦、「第二次世界大戦」とはいうものの、各国の「記憶」では自国や直接の相手国だけに注目しがちで「世界」という視点が抜けているという指摘も目からウロコでした。 改めて、日本が経験した「世界大戦」がどのようなものたったのか、世界の潮流を見ながら学び直したくなります。
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歴史について考える際に歴史と記憶に分けるアプローチは新鮮でした。 歴史を自国に都合のいいように記憶として解釈するのは世界共通であり、簡単に他国の歴史認識を批判するが、歴史や記憶は相対的であり時代と共に変化し得るもの。 つい自分たちの理解が正しいと思ってしまうが、戒めのために歴史を...
歴史について考える際に歴史と記憶に分けるアプローチは新鮮でした。 歴史を自国に都合のいいように記憶として解釈するのは世界共通であり、簡単に他国の歴史認識を批判するが、歴史や記憶は相対的であり時代と共に変化し得るもの。 つい自分たちの理解が正しいと思ってしまうが、戒めのために歴史を学ぶ際に常に置いておきたい1冊。
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以前ネットの記事で読んで非常に興味深かったので、本化されたものを購入。 記事は確か部分的だったので、これが全編になるのか。歴史家の記述に、人々の記憶というものを別ファクターとして加えることは、いざここに出てきている教授の話を聞くと非常に重要なことがわかる。そしてそれが変わっていくプロセスであるという説明も非常に興味深い。まあ結局、先に読んだプロパガンダの法則と同じで、自分たちは悪くないということを強調したがるといったところか。しかしまあ映画やメディアの影響は大きいな。。 要点をまとめるとこんな感じかな。 歴史と記憶を分けて考える 歴史とは、歴史家が歴史書に書くもの 記憶とは、学校の教科書、国の記念館、映画や大衆文化などで人々に伝播するもの 2016年12月 ハワイのUSSアリゾナ記念館で日本の首相とアメリカの大統領が訪れ、和解について語り、それが共通の記憶となった。 4種の記憶の領域 オフィシャルな領域:公的機関による歴史/国立博物館、国定教科書など 民間の領域:映画、小説、メディアによって伝えられた歴史 個人の記憶:実体験者が語って伝えた記憶 メタメモリー:論争になっていることを知る記憶 記憶の変化は外的圧力か、下からの活動家たちの行動の結果で行われる しかし、中国に浸かってみると歴史というものは過去に起きたであろう事実をできるだけ正確に導き出すことではなく、どう政治の道具として使うかとなっているので、日本人の思う歴史(多分、事実をできるだけ正確に導き出そうとする)とは同じ単語でも意味が違う。そして中国だと歴史家が歴史の書き換えを担っている(と思う)。結局そこで議論をすることが出来ないのではないか強く思う。 P.5 国民の記憶へのそれぞれの思い入れの強さと、思いの強さによって異なる立ち位置にある者同士での冷静な対話が難しくなっている状況に、強い印象を受けた。(中略)すべての人々が過去の中でも時刻に特有する部分を記憶することに傾注していた。そして、彼らの間で交わされる緊迫したやりとりの中に、歴史についての知識が少ない事実に愕然とした。 P.94 記憶の変化が起きたのかを知るには、政治のクロノロジー(流れ)、または(中略)「時」を見ないといけません。私はこれをChronopoiticsと呼んでいます。まさに、「現在が過去を変える」ことがあるのです。 P.135 オフィシャルな領域というのは自発的に動いているというよりは何かに「反応」しているものなのですが、何に反応しているかが重要です。 P.141 慰安婦についての議論というのは「当時、それをすべきではなかった」という過去のことでもあり、「将来においてそれをしない」という未来に向けた話でもあります。 P.143 戦争の記憶はどれも「国民的な」ものであり、自国の経験に特化して語られるものだ。時間が経つなかでは、戦時中の敵国や同盟国など他国の味方を内包していくというように変化することもあり得る。しかしそのようなときでさえ、戦争と国家のアイデンティティーは切り離せるものではなくむしろ物語の中心に据えられる傾向にあり、その物語は戦争体験者だけではなく、戦後世代にも引き継がれていく。 P.150 私は歴史家として、政治家された記憶をよしとしない。記憶を政治家するときに、過去はいとも簡単に道具にされてしまうからだ。 P.181 時代によって教科書だけでなく先生の世代も変わりますし、世間の味方というのも変わるからです。もちろん、政権を含めて政治的文脈も変わりますね。自分の子供は全く別のことを学んでいるかもしれません。共通の記憶というのは「プロセス」であり、このプロセスに終わりはありません。終わりがないので、国内外の比較だけでなく世代間についても比較をしながら注視していくことが必要ですね。 P.193(原爆について) 日本とアメリカで語られる原爆についての一般的な記憶は、それぞれ半分ずつ抜け落ちている。「原爆は戦争を終わらせ、アメリカ人の命を救った」。そこで、アメリカ型の物語は一般的には終わる。日本の側では、原爆は戦後の日本の平和への使命と結び付けられ、そこからメインの物語が始まる。両方の国が、原爆の物語を半分しか語らない。まるで、日本はヒロシマ以前の出来事を軽く飛ばしているようであり、アメリカはナガサキ以後に起きたことにほとんど触れない。
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戦争の「歴史」として一般に語られるのは「記憶」であって、事実として公式に記録された「歴史」ではない。「記憶」は国や立場、年齢などの違いで異なる内容であり、それは変わってゆくものでもある。自分たちや他国・他者の「記憶」が、それぞれどのように作られてきたものか(個人の経験、公式の記録...
戦争の「歴史」として一般に語られるのは「記憶」であって、事実として公式に記録された「歴史」ではない。「記憶」は国や立場、年齢などの違いで異なる内容であり、それは変わってゆくものでもある。自分たちや他国・他者の「記憶」が、それぞれどのように作られてきたものか(個人の経験、公式の記録、マスメディア・・・)意識することで、自国・他国の歴史を尊重する視点を持てるし、過去の出来事に向き合った上で良い未来を築く責任が私たちにはあると。 ときどき、身近な人たちがごく自然に他国の人に対して酷い発言をするのを聞き「この人のこの考えはどこからきたものか」と不思議に感じることがある。それが個人の直接的な体験から来たものだと知り納得できたり、なんとなく想像できる場合もあるのだけど。 そのようなことに限らず、自分の考えがどう形成されてきたのかは常に意識していないと危険。正しいと思ってもそうでないことは意外と多いような気がしているし、いろんな本を読んで気づかされることも多い。 この本は、バックグラウンドの大きく異なる学生たちそれぞれから見た「歴史」の違いが具体的に語られ、とてもわかりやすかった。若いうちに実際にこういう勉強して、たくさん考えた人たちが政治家になってほしいのだけど。 #戦争の記憶 #コロンビア大学特別講義 #学生との対話 #キャロルグラック #講談社現代新書 #読書 #読書記録 #読書記録2022 #NOWAR
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慰安婦について、「もうお金を払ってるし、お互い納得したので解決済み」とする、やっと最近になって日本で出てきたストーリー的なものを、韓国では教育レベルで刷り込んできたんだろうなあ。 韓国人学生の物言いに淀みがない。 上記の事実に対してもそれが何か、と言った感じだ。 この対話の中でも...
慰安婦について、「もうお金を払ってるし、お互い納得したので解決済み」とする、やっと最近になって日本で出てきたストーリー的なものを、韓国では教育レベルで刷り込んできたんだろうなあ。 韓国人学生の物言いに淀みがない。 上記の事実に対してもそれが何か、と言った感じだ。 この対話の中でも歩み寄りみたいなものはあまり感じられなかった。 まあ、訳されたものだからニュアンスまで汲み取れてない前提ですが。 日本人としては詰められても「困惑」の一言に尽きてしまうのではないか。 個人としての責任。 最後に出てきたトピックについて考えさせられる。 最後の学生の結局は政治の問題ではなく私たちの問題なのでは、という指摘にハッとする。 とりあえずお互いの言い分というものをよくよく理解するのが第一歩か。
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著者は明治時代から現代までの日本の近代史を専門とする歴史家。コロンビア大学で行われた特別講義で、著者は様々なバックグラウンドを持つ若い学生たちと第二次世界大戦について議論する。 過去を語るにあたり、「歴史」と「記憶」で分けて考えることにしているという。「歴史」は史実として歴史家や学者が歴史書に書くもの、「記憶」は教科書、記念館、映画、テレビなどを通じて多くの人々に伝わる「共通の記憶」。 記憶の物語は「国民の物語」なので、国によってそれぞれ別の物語になるという限界がある。例えば、パールハーバーを騙し打ちと捉えるアメリカと、原爆の投下から平和への使命を与えられた日本の見方。また、「記憶」はナショナリズムと結びつけられるケースが多々あるため、著者は、一国だけを研究していては戦争の記憶を理解できないとしている。 著者の「罪」と「責任」についての記述が印象に残った。戦争犯罪が「自分たちと関係がない何世代も前のこと」で済ますのではなく、何があったかを理解して次の世代に伝えることが大事。
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いろいろな立場から語られる記憶を受け入れ相対化するというアプローチに間違いはないし、本書の中で展開される議論でも効果を上げているように思うが、教授自身が相対化できていないリベラルでフェミニストである米国人という立場は本書でも顕著に見られる。
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2017年11月から翌年2月までコロンビア大学にて日本近現代史を専門とする著者を囲んで行われた全4回の学生との対話を本にしたものである。学生は日本を含む多国籍な出自を持っているが、発言に相応に生まれ育った国の影響が見て取れるのが面白い。一方で、その発言はグローバルな共通理解の範囲...
2017年11月から翌年2月までコロンビア大学にて日本近現代史を専門とする著者を囲んで行われた全4回の学生との対話を本にしたものである。学生は日本を含む多国籍な出自を持っているが、発言に相応に生まれ育った国の影響が見て取れるのが面白い。一方で、その発言はグローバルな共通理解の範囲の中にあるとも言えるし、逆に国際政治を学び、興味を持って議論に参加する彼らの発言がグローバルスタンダードであると考えるべきなのかもしれない。 全体テーマは「戦争の記憶」で、各回は次の通り。 第一回 Memory and History 第二回 Operations of Memory 第三回 The Comfort Women in Public Memory 第四回 The Past in the Present 第二次世界大戦からすでに70年以上が経過し、実体験として知っている人がいなくなるにつれて、「記憶」がどのように形成されるのかはますます重要となり、それは政治の問題となって「記憶の政治」が経ち現れてくる。それは忘却されてなかったものとなるどころか、日本においても中国や韓国との間でますます課題となり続けているし、欧州でもアメリカでも同じように「記憶」のし方が課題となっているのである。 「記憶」は作られる。それは個人の記憶でも、集団の記憶でもその観点においては同じことのように思われる。どのように記憶されるかは、また個人でも集団でもその記憶のし方がその記憶を強化する形となったときにそのように定着される。その記憶をゆさぶることができるのは、他者の記憶であり、記録を含めた他者への敬意であろう。 ヘイトスピーチに代表されるように、過去の他者の記憶の蓄積がないものほど、単純な記憶によって自らの行動に影響させやすい。今、もし戦争の記憶が問題となるのであれば、それはネットワークの拡大による記憶の生成と取得があるからにほかならない。また、戦争の記憶は必然的にナショナリズムに結合する。 「記憶の物語とは「国民の物語」なのです」 と語る。 「「歴史は正確であろうと」します。ですが、歴史は必ずある立場に立って書かれているので、正確であろうとする試みがいつも成功するとは限りません」 「正確な歴史」というものがあるのかどうかもわからない。アメリカ人にとってのパールハーバーの記憶は、日本にとってのそれとは異なる。一方で、「アメリカと日本は、共同して両方の国にとって心地よい太平洋戦争の物語を作り上げました」というのは戦後の経緯としてきっと正しい。「アメリカの物語は原爆までを語り、日本の物語は原爆から始まります」- 日本の戦争の記憶には、空襲と原爆投下と玉音放送によって戦争が終わるという物語があるが、そこには中国との戦争が欠けている。南京事件が国内でかきたてる騒動は、それが物語に組み込まれてこなかったことにも由来する。 また、グローバルにおける戦争の記憶の位置づけも変わってきた。著者が指摘するように歴史に対する謝罪が政治の舞台で論点となるようになったのは、戦後しばらくの時間を置いてからのことだ。それに対して意識的でなくてはならないし、おそらくは個人の責任もそこにはある。政治家もメディアも国民の方を向いている。LGBTに対する見方が劇的に変わったことからわかるように、あることに対する見方が変わるのに思ったよりも時間は必要ない場合もある。 著者は慰安婦をテーマに取り上げて、「慰安婦が共通の記憶に取り込まれるプロセス」について議論する。学生たちの反応は、慰安婦について東アジア史で学んだという人が多く、知識を有していた。これは、20年前はありえなかった話だという。 「ホロコーストの記憶はジェノサイドに対する世界の見方に変化をもたらし、一方、慰安婦の記憶は戦時における女性への暴力に対する見方を変化させたのであった」 「ホロコースト」と「慰安婦」の問題を並列に並べることに違和感を覚える人もきっと多いだろう。戦時の性暴力に関してはおさらくは多くの人が知っているように、慰安婦の問題は特異なものではなかったという人も多いだろう。それを知った上で、「記憶の政治」に関わらなくてはならないということを言わんとしているのではないかと思う。いずれにせよ、国際政治の中で、日本が記憶の政治において失敗をしていることは、その結果から明らかであり、多くのものごとと同様それを他責にすることは何の解決にもならないのだから。
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戦争は無くなれ、と、こうした本を読むと常に思うが、無くならないのは何故か? 戦争をしたいかと聞かれたら、みんなしたくない、あって欲しくないと答えると信じているが、戦争に踏み切る人々がいるのでしょう。 この本にあるように若い世代の様々な国の出身者を交えて世界中でこうした対話をして、...
戦争は無くなれ、と、こうした本を読むと常に思うが、無くならないのは何故か? 戦争をしたいかと聞かれたら、みんなしたくない、あって欲しくないと答えると信じているが、戦争に踏み切る人々がいるのでしょう。 この本にあるように若い世代の様々な国の出身者を交えて世界中でこうした対話をして、歴史を学ぶと少しずつでも良い方へ向かうように思いますね。 学生の一人が感情的になり過ぎずに冷静な議論ができたと言っていて、良い人材だと思いましたね。 日本ももっとこういう教養のあるやり取りをしていく仕組みや機会を多く産まれることを祈念します。 自分も頑張ろー!!
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自分が知っている歴史上の事件の情報がどこからきているものか振り返り、記憶と歴史を区別して考え、物事が起きた複雑な背景を整理・理解する作業の大切さが、今いかに求められているか、ちょうど隣国の中傷を煽る社会風潮の中で、立ち止まって皆に読んでほしい1冊になりました。
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