藤原彰子 の商品レビュー
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藤原彰子、大河ドラマの少女と全く違う、日本の 政治形態に影響がある人らしい、皇室の長として 宇多源氏の長として、藤原家のオサとして財産管 理や権限が集まり、多くの仕えた女房達と夫の家 の叙位任官も「強縁の人」故に任じられ相応しい 云々ではないと非難もあるが、それを含めて人事 権を掌握していた・・・サロン経営こそ定子の方 が当意即妙・機知に溢れた様子だったのに比べて 口数少なく知識や教養も劣るものだったかも知れ ないが、国母になってからは知恵も教養も溢れる サロンになった(道長も才能ある女房達を集めた) 衣装については儀礼に通じ下賜も含めて、多くの 逸話が残っている母親的な日常の世話さえ感じる 政治も天皇の親という親権による政務後見が重要 で、87歳という長寿を全うした彰子は二人の天皇 に代わり長く内覧をつとめ公文書も発給しており 後世からも上東門院の先例に基づきと参考にされ 白河院などは政務の模範としていた
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藤原彰子、988~1074、87才で没。 今までのイメージだと、華やかな定子に対し地味な彰子、というのがあった。しかし服藤早苗氏によって記される彰子はどうしてどうして、夫一条天皇亡きあと、息子の後一条天皇、後朱雀天皇の国母として堂々の政治後見を行った、たいした女性だった、という新...
藤原彰子、988~1074、87才で没。 今までのイメージだと、華やかな定子に対し地味な彰子、というのがあった。しかし服藤早苗氏によって記される彰子はどうしてどうして、夫一条天皇亡きあと、息子の後一条天皇、後朱雀天皇の国母として堂々の政治後見を行った、たいした女性だった、という新たな像に変わった。「紫式部日記」に現れる彰子は第一子出産時のあたりなので、この若い時のイメージが定着しているのかも。 7月現在の大河「光る君へ」はまだ入内したばかり。「おおせのままに」と意思が無いような言葉だが、この幼い姫はこのあと長い人生を、人々を看取りながら生きていくんだなあ。 記述は「紫式部日記」はもとより、「御堂関白記」「小右記」「権記」「左経記」「春記」などの男性貴族の日記に見える彰子を手掛かりに行動を詳細に追う。ただ45才になるころには史料も少なくなり、創作された部分も多い「栄花物語」「大鏡」などにも頼ったとある。ページ上に小見出しがついているのが分かりやすい。 これらの史料から明らかになったのは、天皇の母として政務を後見し、天皇家の家長と摂関家の尊長としても発言力を持っていたこと。さらに摂関政治から院政へとつなぐ結節点にいたこと。さらに道長筋の系譜の優位を確立したこと、などが明らかになった。彰子の後宮には道長の系譜以外の藤原家の女性を女御として集め、天皇の妻には道長筋からのみ充てる、といった流れの中にいた、とある。 988 生まれる 999 12才 一条天皇に入内 1008 21才 敦成親王出産 1009 22才 敦良親王出産 1011 24才 一条天皇没(31才)~三条天皇即位 1016 29才 敦成親王は後一条天皇に(7才) 1027 40才 道長没(62才) 1036 49才 後一条天皇没(28才)~後朱雀天皇即位 1045 58才 後朱雀天皇没(36才) 後朱雀天皇の子が後冷泉天皇として即位 1053 66才 母・倫子没(89才) 1068 81才 後冷泉天皇(孫にあたる)没(43才)~後冷泉天皇の異母弟(母は三条天皇皇女)が後三条天皇として即位 1072 85才 後三条天皇譲位し白河天皇(後三条天皇の子)即位(19才)。 1073 86才 後三条天皇没(39才) 1074 87才 2月・頼道(弟)没(82才) 10月3日 彰子没 1075 9月・教道(弟)没(79才) 「左経記」源頼経(985-1039)の日記 「小右記」よりは簡略だが1016-1035の事を記す。 「春記」藤原資房(1007-1057)の日記 2019.6.1第1版第1刷 2023.4.20第1版第2刷 図書館
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藤原彰子が国母として長く君臨したことを、史料(が豊富ではないため時に栄花物語も援用)に基づき具体的な事象を追うことによって証していると言えよう。それにより、摂関期と院政期が断絶的ではないこと(彰子が国母・女院として権力をふるったのが院政の原型であったとしている)、父院と母院が当時...
藤原彰子が国母として長く君臨したことを、史料(が豊富ではないため時に栄花物語も援用)に基づき具体的な事象を追うことによって証していると言えよう。それにより、摂関期と院政期が断絶的ではないこと(彰子が国母・女院として権力をふるったのが院政の原型であったとしている)、父院と母院が当時及び後世の貴族社会において同等とみなされていたことなど、従来の通説を革める知見を与える署といえる。ただし、国母がこのような権力を持ったのは彰子くらいなので(そんなに長生きした人もいなかったのと、何より、天皇家の家長であるのと同時に御堂関白家の家長でもあるという特異な条件ゆえ(頼通がどんなに年取っても姉を頼り続けたため))、院政のようにシステムとして確立されることはなかった。 道長や源氏物語のいわば背景知識として描かれがちであること、即ち若年期が取り上げられがちであることが、彰子の本領を見誤る原因となっていたのであろう。彼女の能力は、夫と父を亡くした後に発揮された。殆どカトリーヌ・ド・メディシスのようだ。 一方で、道長同様、いや実際王家の一員ゆえそれ以上に、公私混同が激しかったこと(私的なことに公費はもちろん、他の貴族からも財や役を徴したり、身内はもちろん、家司や乳人などの自分らのいわば手下を偏重した人事を行ったり)など、もっと批判してもよいのでは。道長の子孫以外の女性を強制的に女房にすることで女性を序列化し、后妃たるべき女を道長家で独占しようとしたことなども、すごくヤな感じなのに(いずれ院政期に破綻してザマミロだが)。 また、彰子の重要性を強調したいがためか、ちょっと依怙贔屓している印象も受ける。頼通が子師実を内大臣にした時に、能信を権大納言に据え置いたことについて(40年近く据え置き)、「頼通の冷徹さが際立とう。」と書いていて(p.217)、彰子のことに触れていないが、それまで、彰子の人事への関与についてさんざん語って、天皇も頼通も彰子の承認なくして重要な人事を行うことができなかったことを示唆しておきながら、なぜここで冷徹なのが頼通だけなのだろう。当然彰子も同意していた(冷徹なのは彰子も同じ)と考えるべきではないか。 後一条と威子について、「叔母と甥との近親婚ゆえ男児誕生率は低い。」(p.152)、「叔母と甥との近親婚ゆえ、男児は流産することが多かった。」(p.171)と非科学的としか思えないことを堂々と書いているのも理解しがたい。 「始めた」を「初めた」(p.127)、「借りる」を「貸りる」(p.118)と、誤変換でも出てこないような誤植もある。p.102 1行目の「一条天皇」は「後一条天皇」の誤記。
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在籍している大学で、テキストになっていたので読了。講義の方は体調不良で出ることが出来なかったけれど、せめて自習したかったので、丹念に読んだ。藤原彰子について、私達はどのくらいのことを知っているだろう。「源氏物語」の作者、紫式部の女主人。中宮定子と、一条天皇の愛を争った勝者で、藤原...
在籍している大学で、テキストになっていたので読了。講義の方は体調不良で出ることが出来なかったけれど、せめて自習したかったので、丹念に読んだ。藤原彰子について、私達はどのくらいのことを知っているだろう。「源氏物語」の作者、紫式部の女主人。中宮定子と、一条天皇の愛を争った勝者で、藤原北家の最大の成功者、道長の息女。このくらいだろうか。 その認識で、基礎的なところは間違っていない。この本を読むと、その後も、如何に道長が、自分が権力を握ることに腐心して、一条天皇以降、どの天皇にも、自分の都合で譲位を迫り、追い込んでいたかがわかる。その傍らにあって彰子は、定子の遺児であった敦康親王の即位を、代母として長く望み、自らの権威や実家の繁栄は尊重しながらも、道長の専横をたしなめる面もある、聡明な女性であった。幼帝を即位させた場合、母后が政治を見ることは、当時もあったらしく、なかなか老練な政治手腕も持っていたことが、当時の貴族の日記など、史実を裏付ける史料から読み取れる。そこにあるのは、私達が、なんとなく想像で埋めていた部分を補われた、生々しい政治・女性史の担い手としての彰子像である。 平安文学を入り口に、この時代の女性について学ぶ時、文化の担い手としての部分ばかり注目しがちだが、家族・政治・有職故実・様々な面から光を当てると、非常に立体的な人物像が浮かんで、優美なだけの世界でなかったことも見えてくる。その点が非常に新鮮だった。後の八条女院など、大きな経済基盤をもった女性皇族の嚆矢として学び直し、捉え直すと、さらに深い勉強が出来そうなので、他のご著書や資料にも、頑張って目を通してみたい。 読みやすく、平易で、よく整理された文章なので、興味のある方ならどなたでも、面白く読み進められると思う。
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