ぼくがスカートをはく日 の商品レビュー
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ラストが、それまでの『ぼく』から『わたし』になっている。けど、これ……英語だと同じなのでは?と思ってしまった。いや。違うのか?うーん。よくわからない。 でも、この最後の訳がすごくいいなと思った。 いくつか女子トイレに入りたいというシーンがある。結局は入らないけれども。 これがよく分からない。ただ『女の子の場所に入って、自分が女の子である』と確かめたいという事にしか見えない。しかし、大半の女性にとって、別にトイレは『自分が女の子と自覚するための場所』ではない。ただの『排泄場所』であり、男性用と分かれていることで『安全に』使える場所であるというだけでしかない。 つまり女性であるという事は『男性への脅威』を常に感じるという事で……別にスカートはきたいとか、三つ編みしたいとかではないんだよな。 たぶん、私がトランスジェンダー……特にトランス女性が理解できないと思うのは、その辺りなのかもなと思った。 女性の服を着たいけど、それが出来ないから色々と工夫する点はいいなと思った。 思春期のこじれていく人間関係とか、新しく結ばれる友情とか、近しいわけじゃないけどそれほど遠いわけでもないみたいな中途半端な距離感とか……そういう繊細な空気感みたいなのは好みだった。 思春期のあれこれと思って読むとそれほど気にならない。ただこれを『トランスジェンダーの話』と思って読むと、細部がもやもやする。 でも作中では誰も『トランスジェンダー』とは言わないし、本人もそうだとは言わない。 ただ『女の子の格好をして、女の子として扱ってほしい男の子』として書かれている。服装に関しては『何も言わない』キャラもいるけど、主人公は『自分がおもちゃになっている』自覚がある。可愛く髪を編んでくれるのも、女の子たちは面白がっているだけだと。 それはそうだな……と思うけど、それは年少の女の子にも同じ対応だと思うので『男の子だから』というものでもない。女の子の側にはそれを楽しむ余裕があるというだけの事。 女子トイレまで入りたいって言ったらドン引きされることがわかっていて、主人公も言わないまま物語が終わる。女子トイレの扱いだけが気持ち悪い。 トイレも大用トイレと女性用は同じ形なのでなぜ『女子トイレ?』 これ、男性用トイレの大用に入って『女性気分を味わう(座って行う)』ではダメなの? それとも、女子トイレに入れないので女性用トイレの形を知らない……という話だったのだろうか?いや、それはないよね。女性の気分を味わうために服装ではあんなに創意工夫していたのにトイレになると途端に『女子トイレに入る』になるの不思議。 でも、こう書くと差別なのだろうな……。
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『むらさきのスカートの女』(今村夏子)を思い出すために読もうと、キーワードで選んだ『ぼくがスカートをはく日』(エイミ・ポランスキー)。 今回は【トランスジェンダーの小学生6年生が持つ苦悩の話】でした。 偶然ハトシェプスト興味で選んだ『碧いホルスの眼』(犬童千絵)を並行して読んでいる事もあって、 「この事で悩む人は昔からいるんだな」って思ったかな。 さらに主人公の場合、自身の考えを尊重してくれた両親を交通事故で早くに亡くしており、心情はさらに複雑なもの。 先日読んだ『違国日記』(ヤマシタトモコ)では高校生主人公も似たような境遇にあった事を思い出し、読後こんな近日中に類似ストーリーを読む事になって驚いてました。 それでも「自分はこうありたいんだ!!」っていう気持ちを持ち、興味を持った演劇で与えられた役を演じ切ったその姿は本当にカッコ良かった。 最後の【普段の生活面でも自分を出していく事を決意して終わるシーン】なんて「ホーッ……」って息吐いてましたね…。 最初の内気な性格から飛躍的変化を果たしたこの一連の流れを知るのには、絶対一気に読むべきです。 本書はキッカケとなった本とは異なるインパクトを持つ一冊でした。 同じキーワードにしても、全然違うスカートだった。
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まだまだ心と体の性について理解されない世の中。 もっと自由に生きられるようになるのはいつになるんだろうか。 12歳の主人公の気持ちが苦しかった。 最後は良かった。
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ノートに記号でお姫さまの絵をかく 自分の着ている服はかわいい女の子の服だと空想する ぼくは女の子の服を着たい 大好きな先生が劇のオーディションを行った 最後まで迷いに迷ったけど、女神ペルセポネの役でオーディションを受けた 〇家族も友だちも先生も、支える人もイジメを行う人も心配しながらも本人は見てくれない人も、入れ替わり立ち替わり。 その中で主人公グレイソンだけは、静かに自分は“女の子”だと揺るぎなくいる。傷ついても。 〇最後の一文のために、この1冊を読んだ気がする
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トランスジェンダーの女の子が家族やクラスメートの無理解に悩まされながら、信頼できる先生と出会って成長していく物語。希望を持てる前向きなストーリーなのがとてもよいです。
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体と心の性が一致しないLGBTの男の子の話。 グレイソンは丈の長い服を着て女の子のスカート姿を空想していたが、思春期になり、自分が変わっていく姿に、空想が出来なくなってきた。 だれにも言えず悩み、ドレスを着るお姫様を描いたりして空想を続ける。 ある日、学校の劇のキャストオーディションを知り、応募、そしてその役は主役の女の子の役。そして見事獲得。 ここからグレイソンを取り巻く環境が変わっていく。 一緒に暮らしている養父母やいとこは、そんな彼に戸惑い、これによって彼がいじめに合うのを恐れ、養母が学校に苦情を入れ学校全体の問題に発展し、劇監督を務めるみんなの人気者フィン先生は退職に追い込まれそうになる。 グレイソンは、いじめっ子から毎日のようにいじめられるようになる。 それでも演じているときはスカートをはいた女の子になれる、と自分を徐々に開放していく姿、とまどいの中の決意。 グレイソンのような子は、世界中に、そして日本にもいて、まだまだ受け入れられていない、不安でカミングアウトできない人もたくさんいそう。本来の自分を受け入れてもらえないことは何と辛いことだろう。 でもグレイソンの周りにもいたように、味方になってくれる人もたくさんいるはず。LGBT理解者が増えていくといいな。 英語なら一人称は【I】だから女性も男性もないのだろうけれど、訳語ならではで、ずっと【ぼく】と自分を語っていたグレイソンが一番最後に【わたし】と表現していたのが心に残った。
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『ぼくと秘密のメリッサ』も演劇が使われていましたので、イメージがダブってしまいました。 LGBTQテーマの物語。 生まれつき女の子と思っていた男の子。想像の世界で自分の洋服をスカートだと思って過ごしていたが、その空想の力が追いつかないのを感じ始めていた。でもやっぱりスカートに憧れ...
『ぼくと秘密のメリッサ』も演劇が使われていましたので、イメージがダブってしまいました。 LGBTQテーマの物語。 生まれつき女の子と思っていた男の子。想像の世界で自分の洋服をスカートだと思って過ごしていたが、その空想の力が追いつかないのを感じ始めていた。でもやっぱりスカートに憧れる。女の子の着ている明るい色の服や長い髪にも目がいってしまう。 この話では、主人公グレイソンのありのままを支持する人と、自分の価値観・信念を主張してしまう人もいます。それはきっと、現実の世の中を楽観視せず、それでも勇気を持って自分らしく生きて欲しいというメッセージを送っています。 読んだ皆が、何かしら考えたり印象に残ったりする部分があるだろうと思える物語でした。 自分の性に悩む人に、これで良いのだと力を与え、自分の周りにもグレイソンか、それとも違うタイプの悩んでいる人がいるかもしれないと想像できる。そんな一冊でした。 読みにくくはないですが、小学生には少し長く、どうして?と思うことも多く、しんどいかもしれません。 皆が普通の事として互いを尊重できる世の中になれば、グレイソンばかりでなく、サリー叔母さんやジャック、さらにはライアンも苦しまないのかな?と思いました。
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読書会の課題本となったため、読む。 いろいろまだるっこしかった。そんなん、言っちゃえーとか、平気だよーとか、負けるなーとか。 でもやっぱり10代は戸惑うよね。
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自分は立場や年齢的にサリーおばさんが一番近い立場なんだけど。この本の登場人物の中でサリーおばさんが一番理解できなかった。 「どうしてこんなにもグレイソンを否定するんだろう?」「なぜ、グレイソンのチクチクしている気持ちに気がつかないのだろう?」「自分の価値観を押し付けて振り回し、グ...
自分は立場や年齢的にサリーおばさんが一番近い立場なんだけど。この本の登場人物の中でサリーおばさんが一番理解できなかった。 「どうしてこんなにもグレイソンを否定するんだろう?」「なぜ、グレイソンのチクチクしている気持ちに気がつかないのだろう?」「自分の価値観を押し付けて振り回し、グレイソンの世界をメチャクチャにするのはなぜ?しかも、PTAを巻き込むとか。この行動力なんなの?」と。わからない事だらけで。 なので、まあ、サリーの立場とサリーを俯瞰した視点で考えてみたんですが。 サリーは「グレイソンが否定的な目で見られることはかわいそう」と言っていますが、サリーの一番の不安は「否定的な目で見られるグレイソンの保護者である私がかわいそう、だし、私が周りからどう思われるか怖い」が正直なところだと思う。つまり、自分がつらい立場に立ちたくない。それは、グレイソンがつらい思いをしている現状よりも未来につらい立場に立つ可能性がある自分の方が大事ってこと。(注目したいのは、現在つらいのはグレイソンだけであって、サリー自身は現在つらくはなく、劇が行われる未来に向かって可能性がある というだけ。しかも、自己中心的な自分の思いに気がついていない。) まあ、子育てをしている母親にはありがちな「転ぶ前から転ぶよ!気つけて!を連呼する」(この声かけ謎すぎる)「石橋を叩いて叩いて、叩き割ってどこにも行けなくなる」てな感じの。視野が狭く、自身の保身の為になら周りの気持ちなどお構いなしに発言し行動する人のすごさを感じました。 グレイソンがいままでも、これからも、たたかっていかなければいけないのは。こんな、自己中心的で視野の狭い人なんだろうなぁと思いました。
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クライマックスには演劇のシーン。主役のペルセポネを演じるグレイソン。 この本のストーリー構成から、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を連想した。 フレディ・マーキュリーの半生が描かれた後、クライマックスのライブエイドのステージで「エィヨ、イーヨ、オールライト!」と観客にコールするフ...
クライマックスには演劇のシーン。主役のペルセポネを演じるグレイソン。 この本のストーリー構成から、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を連想した。 フレディ・マーキュリーの半生が描かれた後、クライマックスのライブエイドのステージで「エィヨ、イーヨ、オールライト!」と観客にコールするフレディ。「ありのまま」に生きようとフレディが宣言するかのような名シーンだと思う。 グレイソンにとって、ライトの光が当たる学校の舞台に、ペルセポネとして黄金色のドレスを着て観客の前に現われたときも、同じような心境だったのかもしれない。 グレイソンもフレディも、「ありのまま」であり続けるための悩みや葛藤を多く経験し、そして舞台に立って多くの人の前で、自分が望む姿や生き方であり続けることを“宣言”した。 日常で異質とみられているものこそが、自分自身の自然体だと表明する場面に、舞台という“非日常”が効果的に使われ、異質から自然体への劇的な変換を演出している。 ただしロックスターとして日々非日常を生きていたフレディと違い、グレイソンは12才の少年にすぎない。舞台を降りれば再び日常に覆われてしまう。だけどグレイソンは非日常から日常に戻っても「ありのまま」でいたいという望みをかなえるため、ある一歩を踏み出そうとする。そこまでこの本では描かれている。 私たちが暮らす日常では、男の子が女の子の服装をすることはまだ一般的には許容されていない。この作品では、まるで微細なカメラワークによって細やかに記録して繋げ合わせた映像作品のような丁寧な描写が印象的だ。だから読者はグレイソンの心理を違和感なくgraceful(=優美)だと自然に感じられるような仕掛けになっている。 それと、「まめふく」さんが描いた表紙の絵が素晴らしい。グレイソンの心のうちに隠された憧れをビジュアル化した構図がとてもよい。ちなみに裏表紙のイラストもいい。紙の本の表紙を前にして自分の本棚に飾るのも悪くない。
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