世界の共同主観的存在構造 の商品レビュー
20世紀後半の日本の哲学者、廣松渉の著書。 ハイデガーの『存在と時間』(等)の訳者である哲学者の熊野純彦氏が、「今まで会った中で飛びぬけて魅力的な人物」という廣松渉の世界を知りたいと思い読んだ。 タイトルからおおよそ想像した中身は、人間の認識が、個々人ではなく共同体つまり社会の...
20世紀後半の日本の哲学者、廣松渉の著書。 ハイデガーの『存在と時間』(等)の訳者である哲学者の熊野純彦氏が、「今まで会った中で飛びぬけて魅力的な人物」という廣松渉の世界を知りたいと思い読んだ。 タイトルからおおよそ想像した中身は、人間の認識が、個々人ではなく共同体つまり社会の側から形成されるということであったが、大枠外れていないと思う。 特に、デュルケームを引きながら展開される最終版の議論では、 ①価値判断は社会の側から強制されて根拠となる ②強制力はやがて自己の「内なる声」となる ③集団表象の道徳が必ずしも道徳的とは限らない と問題意識を提示している。 自分の狭い日本の思想・哲学の知識では、吉本隆明の『共同幻想論』や、浅田彰の『構造と力』におけるパノプティコン(監視台)としての「内なる監視の目」という議論に近似すると感じた。 このあたりが現代の思想世界の中心的な問題意識であり続けているのだろうか。 本編は上記問題を定義したところで一旦筆がおかれているが、そのあとの附録の鼎談の内容も圧倒的だった。 特に、フッサール・ハイデガー・サルトル・メルロ=ポンティ・フーコー・デリダという20世紀の哲学・思想の流れが丸々解説されているところは、大変勉強になる。 三名の対談の一人である足立和浩氏が、現代の思想について、「狂気の復権」という言葉で語っているところも興味深かった。 「狂気」は「理性」の病ではなく、逆に「狂気」が「理性」の病をあばく。(p481) 人間の本質とは、理性なのか、狂気なのか。 20世紀の思想・哲学世界は、長い歴史の中で見ると新しくまだ評価が定まっていないと見える一方、現代日本の視点で見ると、直近すぎる故に却って古さが感じられて気恥ずかしい、という二重の理由で何となく手を伸ばしていなかった。 しかし、今回の読書から大変興味深く感じている。 廣松氏は対談の最後を「共同主観性=間主体性の問題に当面せざるをえない」(p488) と締めくくっている。 人間が他者との関わりの中で存在するしかないことは、吉本隆明やハイデガーも提示している問題意識だ。 廣松氏はマルクスについても著作があり、今後読んで理解を深めたいと感じた。 読むことについて、今さらの感、という気恥ずかしさもまだ消えてはいないが、読書は自由であることが素晴らしいと思う。
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数十年前の学生時代に読もうと思いつつ手をつけられなかった本をやっと読了。問題認識も論旨も、そして次の課題も明確だし、論の運びも明晰。確かに、いまもって「主観/客観問題」や「身心問題」、「科学の捉え方」など解決されているわけではなく、いまだに著者の問題認識は古くなっていない。面白い...
数十年前の学生時代に読もうと思いつつ手をつけられなかった本をやっと読了。問題認識も論旨も、そして次の課題も明確だし、論の運びも明晰。確かに、いまもって「主観/客観問題」や「身心問題」、「科学の捉え方」など解決されているわけではなく、いまだに著者の問題認識は古くなっていない。面白い。特にこの岩波文庫版はとても丁寧にルビがふってあって、注も充実しているので読みやすい。
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廣松渉独自の認識論、存在論が第1部と第2部に分かれて展開されていく。フッサール、ハイデガー、サルトルなど近代以降の哲学者をいくつか引用して、人々が、ある物事をどのように共有して対象を認識するのか、すなわち「共同主観化」とはどのような構造となっているのかを深堀する。個々人の自己形...
廣松渉独自の認識論、存在論が第1部と第2部に分かれて展開されていく。フッサール、ハイデガー、サルトルなど近代以降の哲学者をいくつか引用して、人々が、ある物事をどのように共有して対象を認識するのか、すなわち「共同主観化」とはどのような構造となっているのかを深堀する。個々人の自己形成にあたって、歴史や社会とのかかわりがポイントで、とりわけ、言葉という概念が共同主観化が発生する鍵となることが読み取れる。 ちなみに、本書の解説を担当するのが著者の直弟子にあたる熊田純彦で、そこには廣松渉の経歴、思想や本編の要点をあげている。実際に読んでみるとわかるが、文章中に使われる漢字が普段馴染みのないものばかりで、読みづらい印象をもった。そのため、最初にあえて解説部分を読んで、そのあと本書に取り組むと、思想の骨格を掴みやすいかもしれない。
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朝日新聞で大澤がすすめていた本である。辞書を引きながら読んだと書いてある。解説の熊野純彦による、廣松は全共闘時代で東京学芸大学の数学科に進学したために代表になってしまったゆえに立命館大学での内ゲバでリンチにあったと書いてあったが、その詳細は書かれていなかった。 1部は難解だが2...
朝日新聞で大澤がすすめていた本である。辞書を引きながら読んだと書いてある。解説の熊野純彦による、廣松は全共闘時代で東京学芸大学の数学科に進学したために代表になってしまったゆえに立命館大学での内ゲバでリンチにあったと書いてあったが、その詳細は書かれていなかった。 1部は難解だが2部は実例がでてくるので若干やさしく感じられるのかもしれないが、ドイツ語が基本単語ではあるがどんどん出てくるのでドイツ語を履修していない学生にとってはそこがネックとなるのかもしれない。
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本書は廣松渉の主著の一つ。人間を「共同主観的存在」と見る立場から、認識論の乗り越えと再生を目指した廣松哲学。1972年に書かれた。彼は戦後日本を代表する哲学者の一人。 本書は大きく前半と後半に分かれる。その前半は、「主観ー客観」図式の閉塞感から始まり、認識論の現象的世界、言語...
本書は廣松渉の主著の一つ。人間を「共同主観的存在」と見る立場から、認識論の乗り越えと再生を目指した廣松哲学。1972年に書かれた。彼は戦後日本を代表する哲学者の一人。 本書は大きく前半と後半に分かれる。その前半は、「主観ー客観」図式の閉塞感から始まり、認識論の現象的世界、言語的世界、歴史的世界へと辿ってゆく。 後半は、共同主観性に触れ、判断の認識論的立場、デュルケーム倫理学説の批判的継承、となっている。 ただし、判断の認識論的立場については、ある限定がある。それは、判断に関わる省察は、古代ギリシア哲学のアリストテレスも命題論で考察されている。だが、判断が認識論的に省察されるようになったのは、近代哲学になってからという立場を廣松は取る。なので、近代認識論の地平における判断論的省察のみを扱う。 「主観ー客観」図式で彼は一言を呈する。 例えば、認識論の現象的世界では、「いま、時計の音が私に聞こえている」という事態の考察が見事だった。(廣松渉『世界の共同主観的存在構造』岩波文庫、69頁) 現象は、一般に、初めから私の(人称的)意識に属する「主観的」なことがらだとされる。だが、現象的な世界は、元来、前人称的・非人称的であることの確認から始めなければならない、と廣松は言う。音は、私の生体や「物的」環境のみならず、「文化的」環境をも含めた世界の総体に属する。なるほど、この際、私の介在のしかたと他人の介在のしかたは異なるが、その点では当の時計の個性的介在とも同断である。だから、現象的な世界は、前人称的・非人称的と言う所以である、との事。 書名にある「共同主観的存在」とは人間のことである。 解説で熊野純彦は言う。 廣松が「世界の共同主観的存在構造」を主題とするとき、問題の共同主観性は、なによりもまずことばの共有に裏うちされた共同主観性なのである。言語をめぐる思考はそれゆえ、世界をめぐる廣松の思考の中心的な部分に、あらかじめ食いこんでいるといってよい。ことばの共有に裏づけられた共同主観性を問うことは、たほうではまた世界そのものの歴史性を問題とすることにほかならない、と。 私見としては、難解な書物だった。だが、分からないなりに夢中に読める所もあった。「分からないけど、分かりたい」。そう思わせてくれた。普段の自分の日常的世界とは違う「異世界」を味わうことができた。これは突飛な絵空事ではない。日常生活に裏打ちされた論考の世界だった。決して嫌なものではなかった。廣松の思考の海を泳いでいる氣分だった。時折、本の世界に一体感を感じることもあった。その充実感。そして、読み終えたときの達成感。これはかけがえのない時となる。一冊で思考の旅をした。
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講談社学術文庫版で10回以上通読して、全集も買っちゃったけど、これも購入して、また新たな気持ちで、読もうと思っている、、なんか俱舎論の解説とか読んでると、よく思い出される、、
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