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崩れゆく絆 の商品レビュー

4.2

39件のお客様レビュー

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  2. 4つ

    18

  3. 3つ

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2019/01/05

「アフリカ文学の父」による最高傑作と言われる。 物語の前半は、徹底した労働により一代で名声を築く主人公オコンクウォの半生が語られる。彼の考える勇気の大切さ、怠惰への嫌悪などは息をのむほど。一方で、一夫多妻制の下での(現代の感覚から見れば)信じがたいほどの男尊女卑、子どもへの抑圧...

「アフリカ文学の父」による最高傑作と言われる。 物語の前半は、徹底した労働により一代で名声を築く主人公オコンクウォの半生が語られる。彼の考える勇気の大切さ、怠惰への嫌悪などは息をのむほど。一方で、一夫多妻制の下での(現代の感覚から見れば)信じがたいほどの男尊女卑、子どもへの抑圧、「迷信」と呼ばざるを得ないような呪術。同時に、争いを避けるために精霊たちが村人に与える平和への知恵。そして後半、ここにキリスト教の宣教師がやってくる。 初代宣教師は、村人のするどい突っ込みに受け答え、伝統的な慣習に理解を示しながら少しずつ信者を増やしていく(「神は一人といったり、神の息子がいると言ったりどっちなんだよ」といった質問から始まり、キリスト教を理解しようとするアフリカ人の合理的思考が胸を打つ。村の長老と宣教師の応酬は明らかに長老が勝っている)。 こうして、村人たちの中に「・・・(キリスト教にも)どうやら何かが、とんでもない狂気のなかにも、おぼろげながら理屈のようなものがありそうだ、という感覚が広まりつつあった」(P.266)。 厳格な父オコンクウォ(当然ながらキリスト教を激しく憎んでいる。)におびえながら生きる穏やかな息子ンウォイエが、讃美歌の響きに心揺さぶられるシーンは感動的。 しかし後任の宣教師は、(よくあることだが)ゼロからスタートでないだけにかえって「正しい教えが浸透していない。迷信が残っている」と村人と摩擦を引き起こす。村人の抵抗。それを「鎮圧」する英国の植民地官僚たち。その様子は、先住民暴動の「平定」として記録されていく。 「ライオンが自分の歴史家を持つようになるまでは、狩りの歴史はつねに猟師のものだ」 “Until the lions have their own historians, the history of the hunt will always glorify the hunter.” アチェベが好んで使った言葉だそうだ・・・。 (2015年11月のThe Economistより)

Posted byブクログ

2018/11/10
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※このレビューにはネタバレを含みます

ナイジェリア出身のイボ人作家 Chinua Achebe (1930-2013)による、アフリカ文学の金字塔と言われる作品です。 前半は、19世紀後半の植民地化前のイボ族の共同体が、複雑かつ精緻な統治、信仰、慣習システムにより運営されている様子が、主人公であるオコンクウオを中心に描かれています。後半では、それが白人の宣教師たちによるキリスト教布教を境に瓦解していく様へと進行していきます。このあたりが、題名である”崩れゆく絆”をよく体現しています。 この小説は1958年に出版されてますが、そのわずか2年後の1960年にナイジェリアが独立を果たしており、時代は違うものの過度期の不安定や焦燥といった気分が、当時の世相を反映していた、とも言われているようです。 しかし、この小説をそうした歴史的あるいは民族史的側面からよりも、私はオコンクウオという男一人の生き様からとらえるほうが、面白く読めるような気がしました。そして、守護神であるチが運命を先導しつつ、個人の努力にもある程度呼応していく、という宿命論と自力更生的考え方の対置など、自省を促すようなテーマも込められており、多面的な側面を持つストーリーで一気に読んでしまいました。

Posted byブクログ

2018/08/31

植民地をめぐる黒人と白人の闘い!はそれほどメインではなく、一族の血気溢れる父親を中心に物語は進んでいく。部族の中では自分中心に家族を捉える考え方が基本であり、息子は部族の生き方に疑問を持ち、いち早く異教の宗教を受け入れ家族から離れることを決意。いずれ母や兄弟にもわかってほしい。そ...

植民地をめぐる黒人と白人の闘い!はそれほどメインではなく、一族の血気溢れる父親を中心に物語は進んでいく。部族の中では自分中心に家族を捉える考え方が基本であり、息子は部族の生き方に疑問を持ち、いち早く異教の宗教を受け入れ家族から離れることを決意。いずれ母や兄弟にもわかってほしい。そこに父親の存在はない。変わらない人として息子の中では勘定に入らない。父親は俺のやってきたことはなんだったのか、と当然悩む。確かに歩いてきた道なのだが、これからも進むべき道なのだろうか。時代の流れって残酷だ。流されない者にとっては。

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2018/08/11

最後は痛烈。日本の明治維新における、漱石を初めとする文豪の問題意識や西郷隆盛の西南戦争と共通するところがあり、特に日本人にとっては、古くて新しい問題である。それは、第二次世界対戦後という現況にも問題を提起している

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2018/03/12

https://twitter.com/africakotowaza/status/972963632064573440 「他人の物語が気に入らないなら、自分の物語を書け」 チヌア・アチェベ(ナイジェリア人作家)

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2017/10/09
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※このレビューにはネタバレを含みます

初めてアフリカ文学を読んでみた。内容としては特に難解というわけではない。始まりから2/3程度までは、主人公のコミュニティの儀礼、慣習、信仰などが細かく描かれている。若干冗長だなと思いつつ読み進めていくと、イギリス人がキリスト教という道具を持参して、植民地化の目的のもと渡来してくる。そこからはあれよあれよという間に物語が進展していき、あっけなく悲惨な結末を迎えてしまう。終盤のあまりに淡泊な描写には呆気に取られてしまった。だが、そこにはアチェベの思念が宿っているのだろう。長い年月をかけて築かれてきた現地の文化(始めから2/3)が、植民地化政策によってあっという間に瓦解していく。(残り1/3)その速度は、このページ数の配分によって具現化されていると感じた。 文化の脆さというのも感じずにはいられなかった。人間は空想する能力があるからこそ、神話や宗教を作り上げて、他の動物とは比べものにならない規模のコミュニティを形成することができる。そうして育まれた文化にも、どかしらに欠陥がある。この作品で言えば、差別対象とされていた人々が端的な例だろう。そうした人々をキリスト教が受け入れ、対立因子を徐々に拡大させていった。そうして、強固だったはずの絆は崩れてしまったのだろう。 帝国主義時代のダイナミズムを存分に感じ取れる一冊だと思う。

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2019/12/28
  • ネタバレ

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 ナイジェリアの伝統や文化が、ヨーロッパの支配(特にキリスト教による教化)によって崩れていく姿を描いています。著者のチヌア・アチェベは「アフリカ文学の父」と呼ばれているそうです。  第一部ではウムオフィアの村での古くからの暮らしがいきいきと描かれています。しかし、長老や巫女や呪術師のいうことを信じて人を殺したり、オバンジェ(邪悪な子供の霊)を懲らしめるため死んだ子の体を切り刻んだりする村の伝統や文化には、正直なところ違和感を覚えました。ウムオフィアのコミュニティの規範がそこに住む多くの人を不幸にしていることも事実でしょう。現に、物語の主人公であるオコンクゥオの末路は、この規範に翻弄された結果だといえます。  一方で、キリスト教宣教団はどうでしょうか? 彼らは、神は唯一であるとしてアフリカの人たちのアミニズムを蔑視し、石や木彫りの像を拝むことを偶像崇拝として否定するなど、原理主義的であると感じました。この原理主義に基づく正義に則り、ヨーロッパ諸国は世界中で植民地化を進めていった訳です。  そしてアチェベはこの作品で、アフリカの伝統的コミュニティとキリスト教宣教団のどちらが正しくどちらが間違っているといった価値判断を示してはいません。むしろ、ヨーロッパによるアフリカの支配が開始された当時の状況を、ひたすらありのままに描ききろうとしています。  話は変わりますが、ジャレド・ダイアモンドはその著書である「銃・病原菌・鉄」(http://booklog.jp/item/1/4794218788)の中で、ヨーロッパ人が世界を征服したのは彼らが人種的に優れていたからではなく、単に地理的条件に恵まれていたからだと述べています。ナイジェリアのイボ族についても、彼らの文化がキリスト教文化に比べて必ずしも遅れていた訳ではなく、ましてや彼らを征服したイギリス人よりも人種的に劣っていたわけではないのでしょう。  イボ族とイギリス人の対立を深刻化させる原因となった人々の心の動き(不安、敵意、自尊心など)は、アフリカ人やヨーロッパ人に限らず世界中の人類が常に共通して持っているものだと思います。そしてこのような心の動きが、未だに世界中で民族間・国家間の対立を招き続けているのみならず、社会や民族の中にあってさえ人々の対立の原因となっているように思われてなりません。この本は文化人類学の本ではなく、あくまで小説でありフィクションですが、用意周到に書かれた文学作品であるがゆえに、人間社会の普遍の原理をあからさまにしているのだと思います。

Posted byブクログ

2017/04/14

アフリカ文学というくくりが正しいのか、自信が持てないが、疑いの余地なく、優れた文学である。 未知の世界。加えて、読みにくい、非直線的な書き口。私から見ると、非情で、矛盾を感じる文化。 しかし、最後まで読み通し、その言われようのない悲劇的結末に接し、全てに予期せぬ意図を感じたの...

アフリカ文学というくくりが正しいのか、自信が持てないが、疑いの余地なく、優れた文学である。 未知の世界。加えて、読みにくい、非直線的な書き口。私から見ると、非情で、矛盾を感じる文化。 しかし、最後まで読み通し、その言われようのない悲劇的結末に接し、全てに予期せぬ意図を感じたのだ。人間社会、人間とはいかに信頼に値しないか。 社会分裂、変化、崩壊の触媒としてのキリスト教。 『ルーツ』で書かれた世界は一面に過ぎなかった。 語り手が、登場人物の視点が、内と外を往還し、不条理をあぶり出す。その文学性に感嘆した。 くり返すが、深い次元で声を失った作品であった。

Posted byブクログ

2017/02/10

2017.02.09 アチェベの『崩れゆく絆』読了。『やし酒飲み』に通じると思ったら同じナイジェリア出身らしい。やし酒は通快だったが、こちらは文化の衝突。西洋的な考えが正しいようで、実は矛盾も多いと考えさせられた。特に蛇のエピソードは象徴的。傑作!

Posted byブクログ

2017/02/04

「アフリカ文学の父」と言われるチヌア・アチェベの作。 アチェベはナイジェリア・イボ族出身で、ロンドン大学のカレッジにあたるイバダン大学(ナイジェリア最古の大学)で学んでいる。 アチェベはコンラッドの『闇の奥』を批判したことで知られる。アフリカの人間性に目を向けず「ヨーロッパすなわ...

「アフリカ文学の父」と言われるチヌア・アチェベの作。 アチェベはナイジェリア・イボ族出身で、ロンドン大学のカレッジにあたるイバダン大学(ナイジェリア最古の大学)で学んでいる。 アチェベはコンラッドの『闇の奥』を批判したことで知られる。アフリカの人間性に目を向けず「ヨーロッパすなわち文明のアンチテーゼ」としたというものである。アフリカ人を「野蛮」としか見ていなかったというわけだ。 アフリカを描写する「異なる物語が必要」として、実際に創作したのが「アフリカ三部作」と呼ばれる作品群で、この『崩れゆく絆』が最もよく知られる(他の2編、『もう安らぎは得られない』『神の矢』に関しては、少なくとも入手しやすい邦訳は出ていないようである)。本作は別の出版社から数十年前に旧訳が出ていたようだが、この版は2013年刊行と新しい。原著は1958年初版。 物語は1900年前後のナイジェリアが舞台。 呪術や慣習に支配される地で、「男らしく」畑を耕し、勇猛に戦って名を築いていたオコンクウォ。強き男、頼りになる夫、恐い父である彼は、古くからのやり方で、精霊や祖先を崇め、一族の秩序を脅かすものと戦ってきた。役立たずだった父親からは多くのものを受け継ぐことは出来なかったが、彼は強い心で働き、自力で名声や財産を勝ち取ってきた。 妻は3人、広い屋敷も出来た。一族の最高位に登り詰める日も遠くないはずだったが、不運に見舞われ、村を追われた。 村に戻れる日を待つオコンクウォは、よからぬ噂を耳にする。得体の知れない白い男たちがやってきて、禍をもたらしているようなのだ。 時が満ち、ようやく故郷の地を踏んだオコンクウォ。凱旋さながら華々しい帰郷を祝うはずだったが、白い男たちのせいで、村はすっかり変わってしまっていた。 やがて、強い男、オコンクウォは悲劇に見舞われることになる。 前半は伝説や言い伝えに支配される呪術社会を鮮やかに描き出す。 動物たちが登場する昔話は想像力豊かで美しいが、こうしたお話は女向けとされている。 オコンクウォの息子、ンウォイェは実のところ、こうしたお話の方が、父の武勇伝より好きなのだが、男らしくあれと期待する父に背かぬようにそれを隠している。 世が世ならば、父と子の小さな齟齬は表に出ぬまま、世代が引き継がれていくはずだった。 この社会はこの社会として秩序を保ち、この社会の論理で物事を解決し、幾分の揺らぎを含みながらも大きくは平穏に過ぎていくはずだった。 そこに突如、白い人々の論理が持ち込まれた。 論理と論理がぶつかり合ったとき、そこに武力も加わったとき、社会はがらがらと轟音を立てて崩れ去る。 軋みの中で、オコンクウォは滅びへと転がり落ちていく。 残酷なまでの鮮烈さで。 物語の時代設定は、アチェベ本人が生まれるより前のことである。アチェベ自身は言うなれば欧州流の教育を受けている。 本作に関しては、「村」の描写が正確でないという批判もあったという。確かに幾分か「鮮やかすぎる」ような印象は受ける。しかし、「村」の「空気」やオコンクウォの「気質」は如実に描き出されているのではないか。それがフィクションというものだろう。 原作には一切の注がないという。訳者には注を付すことにいささかの躊躇いもあったようだが、本文に添えられた詳細な注と解説が作品のよい導き手となっていることは間違いないように思う。あとがきに記された訳者の真摯さに敬意を表したい。 読み通してみると、三部作の残りの2作品が読めないのは残念なことに思う。なかなか困難なことなのかもしれないが、もしも訳書が出るようであれば手に取ってみたいものだ。

Posted byブクログ