椿の海の記 の商品レビュー
池澤夏樹の解説がすべてを語っていて、その上に書くべきことばが思い浮かばない。たぶん養老先生が言う「花鳥風月」がここにはある。梅原先生が繰り返し書いていた「草木国土悉皆成仏」が読み取れる。みっちんは4歳である。1927年生まれだから、30年代前半の話。昭和1ケタだろうか。そういう時...
池澤夏樹の解説がすべてを語っていて、その上に書くべきことばが思い浮かばない。たぶん養老先生が言う「花鳥風月」がここにはある。梅原先生が繰り返し書いていた「草木国土悉皆成仏」が読み取れる。みっちんは4歳である。1927年生まれだから、30年代前半の話。昭和1ケタだろうか。そういう時代なのだ。いまでいうところの差別用語がふつうに使われている。繰り返し。自然に。祖母である「おもかさま」の存在が大きい。目が見えず、神経を病んでいる。神が宿っている。だから「さま」と呼ぶ。「神経殿」と呼ぶ。幼いころ我が家にも「ようこさん」という知的障害のある親戚の女性がときどき訪れた。僕はそこに異世界を感じていた。4歳の少女が「無限」ということに気付き、数字を恐れるようになる。お茶目な4歳は、「淫売」になろうとする。花魁道中の真似をする。サーカスの真似をする。大雨で川に流されるのはもう少し後の話なのだろう。そのエピソードは本書には出てこない。本書は、自伝でもなければ、エッセイでも、小説でもない。しかし、それらすべてでもある。いや、どちらかというと詩に近いのかもしれない。だから解説で池澤は「ゆっくり読むこと」とアドバイスをしてくれる。はじめ読み出したときには、これはいったい何なんだろうかと少し戸惑ってしまった。それで先に解説を読んだ。「ゆっくり読むこと」ということばを得て、本書の持つ意味、価値のようなものが見えてきた。読みながらジブリの映画を思い出していた。これは千尋が見た世界なのだろうか。いや、それよりもメイちゃんが感じていたものに近いように思えた。神々の世界と人々の世界のはざまをみっちんが紹介してくれているように思われた。
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著者が過ごした不知火の思い出語り。 祖父松太郎は天領天草出身を誇りとしている。土方仕事を「仕事は人を絞ってやるんじゃない、信用でやるんだ」と、天候による損失もすべて自分の山や土地を売って補填してきた。だから家はどんどん身代を崩していった。 その本妻である祖母のおもかさまは魂が漂浪...
著者が過ごした不知火の思い出語り。 祖父松太郎は天領天草出身を誇りとしている。土方仕事を「仕事は人を絞ってやるんじゃない、信用でやるんだ」と、天候による損失もすべて自分の山や土地を売って補填してきた。だから家はどんどん身代を崩していった。 その本妻である祖母のおもかさまは魂が漂浪(され)き、盲の神経殿となり表を流離う。細い右足と象膚病で肥大化し膨れ上がった左足を引きずり着物の裾を破き歩く。おもかさまに付き添うのが孫のみっちゃん。 おもかさまは山に行けば「やまのものはカラス女の、狐女の、兎女のもんじゃるけん、慾慾こさぎっては成らん」という。家ではすっかり色の替わった白無垢をいじりながらみっちゃんに大人しく髪を梳かれている。こうして老狂女と幼女はこの世の無常を編みほぐして過ごす。 祖父松太郎は、おもかさまが神経殿になってからは、権妻殿(妾)のおきやさまを家に入れ妻妾同居としていた。おきやさまは、村人からは獣の性などと言われている。けれどもおきやさまの歌う浄瑠璃にその性の深さをしみじみと感じる。 みっちゃんは母の春乃からは人の世の事をならい、父の亀太郎からは海や山につながる人の生をならった。 亀太郎は、松太郎の養子扱いで殿様気質の松太郎と気は合わなかったが、土方仕事には共に競い合った。土方の兄様衆とはその後も付き合いがつながり続けていた。 身代の崩れたみっちゃんの家は天領天草から水俣の町の外れに引っ越す。 えらい落ちぶれらいた…と言われるその家の先には、のちに水俣病患者たちを入院させた避難病院があり、その先はそのまま斎場になっている。避難病院から先はすでに彼岸だった。 漁村の女たちは逞しく魚を獲り売りさばいていた。彼女たちの二世三世たちが水俣病にかかるのである。 日本窒素肥料株式会社というもんができ港ができ道路ができ町ができる。 町が栄えると女郎屋ができる。貧しい家から売られたおなごどもが生き身で商売する店だ。 みっちゃんは女郎衆の姉さんたちの膝で髪を結ってもらう。 おもかさまが町を彷徨えば、姉さんたちが家まで連れてきてくれる。盲目の老狂女と風呂帰りで白粉と紅の匂いを漂わせる妓たちとの道行はさぞかし人目をひいたことだろう。 この姉さんたちは貧しく売られたが心優しく、本来なら土方の兄さんたちと似合いの夫婦になったであろう。 そんな姉さんの一人、ぽんたと源氏名を付けられた十六歳の娘が殺される。刺したのは十五歳の中学生だった。 貧しく売られたぽんたの実家からは葬式は出さない、そして悋気の店からも葬式は出ない。みっちゃんの父の亀太郎さんは解剖に立ち会い、ぽんたへの哀れを思って嘆く。 不知火の山や海には人以外のものの気配があった。 山には神様が、そして妖怪変化がいる。山の神様と海の神様はその行き合う道で喧嘩をしている。村人たちはその気配を感じながら暮らしている。一人遊びしている幼い子供の姿を山童と思われたのかもしれない。 村では通常と違う人間には敬称が付けられる。神経殿、癩病殿、鼻欠け殿(淋病患者) 、そういう者たちは神様に近いとされている。 そして祖父松太郎と父亀太郎が作っている道というのはなんと不思議なものか。道には生き物の証が、ついさっきまで生き物の中にいた糞や、まだ生命を感じる死んだ身体が横たわっている。道とは人の世と獣の世界を繋ぐものなのだろうか。 山には山の幸、海には海の幸があり、それを分けてもらって生きている。まさに生活が歳時記そのものなのに、なぜこの島は貧しく、男は出稼ぎ、女は売られて淫売と言われるようにならなければならないのだろう。 四歳のみっちゃんは「家を出ていんばいになります」と、町の大通りを一人花魁道中で練り歩く。その後はサーカスを始める。村の人は 「魂のおかしな娘」という。気の触れた祖母おもかさまは「魂の深か子」という。みっちゃんはその感性で世界を見ようとしていた、この世あらわす言葉を探していたのだ。
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※このレビューにはネタバレを含みます
著者が、まだ不思議の世界の中に いた時代…いわゆる幼児の時代の作品です。 子どもだから… ということは決して通用しないということが この作品の端々に出てきます。 その中には大人が言う 決して子どもの耳に入れてはいけないこと も含まれています。 本来は耳には決して入れてはいけないものなのです。 ですが、穢れ多き大人たちはその禁を平気で犯します。 ただ、みっちんはいい親を持ちましたね。 決してそのことをまねしてはいけないという 母親に恵まれましたので。 最後はどこか神々しいものがありました。 おもかさまはもともとはひたむきで 優しい人だったに違いありません。 ただし、最愛の息子の死が 全てを変えてしまいましたね…
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時代も場所も異なっているのに、何故だかふたりの祖母と過ごした時間を想い出させてくれる。私も沢山語ってもらっていたんだな、と思う。
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