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椿の海の記 の商品レビュー

4.3

14件のお客様レビュー

  1. 5つ

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  2. 4つ

    4

  3. 3つ

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2024/08/15

酷暑ビブリオバトル2024 準決勝第1試合 2ゲーム目で紹介された本です。ハイブリッド開催。 2024.8.12

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2024/07/19

水俣という土地に宿る魂を呼び覚ますように、書き尽くしたような作品。 そこに行ってみたいななどという軽い感想は受付ない。もうそこに降り立ったように、読者を誘う。

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2024/06/07

「苦海浄土」の著者が自分の幼女時代を振り返り、当時の自然や情景、家族や大人たちがどう映っていたかを描いた作品。その圧倒的な感性の鋭敏さ、類いまれな描写力に驚嘆させられるというより、自分の読解力が及ばず、ついていくのが困難だったというのが正直な感想である。巻末の解説にあるように、こ...

「苦海浄土」の著者が自分の幼女時代を振り返り、当時の自然や情景、家族や大人たちがどう映っていたかを描いた作品。その圧倒的な感性の鋭敏さ、類いまれな描写力に驚嘆させられるというより、自分の読解力が及ばず、ついていくのが困難だったというのが正直な感想である。巻末の解説にあるように、この本を読む上で大事なのはゆっくり読むこと。今の世に流布しているような、速く読むことを前提に書かれた本とは対極にあると言える。 舞台は昭和初期の水俣。チッソによる水銀中毒が発生する以前の自然や風習、暮らしが描かれる。 主人公である4歳のみっちんこと道子は大家族のもとに育つ。盲目で頭もおかしくなった祖母・おもかさま、祖父・松太郎、そのめかけ・おきやさま、父・亀太郎、母・春乃、叔母・はつの、祖父のあねさま・小高さま、大叔母・お澄み様 松太郎は企業家として、道普請を請負うが、身銭を切ってもきちんと仕上げる性分。そのせいで赤字を背負い、挙げ句、税務署の差し押さえに遭い、墓地や火葬場のある「とんとん村」の藁小屋に移り住む。 あとがきで著者が触れているように、この本で重要な意味を持つのが幼児の時に聞いた大人たちの「淫売」に関する明け透けのない会話。元、住んでいた町の先隣にある女郎屋「末広」で働く娘に対するおばさんたちの悪口を間接的に聞かされた体験が著者に与えた影響は大きかった。子供ながらに、なんとひどい悪口だと思いながら、悪口の意味をわかっていることを見破られまいという意識が伴っていた。本書は、このような体験の集大成として書かれたそうだ。

Posted byブクログ

2024/03/26

朝日新聞の熊本紀行で紹介された本である。チッソ水俣工場の行員が働いている姿が時々に描かれているが、多くはこどもが主人公(本人であるかは明確にされていない)の 水俣の田舎での生活暮らしを描いたものである。

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2023/02/23

エッセイのようでいて異なる。自叙伝というのともまた違う。四歳のみっちんの視点で語られる水俣の記憶。石道楽の祖父、神経を患っている祖母、気のちっさい父とは裏腹に働きものの母。背負子から除いた山々の風景。物質の豊かさと精神の豊かさは別物で、貧しいながらもくるくると働き、四季折々のご馳...

エッセイのようでいて異なる。自叙伝というのともまた違う。四歳のみっちんの視点で語られる水俣の記憶。石道楽の祖父、神経を患っている祖母、気のちっさい父とは裏腹に働きものの母。背負子から除いた山々の風景。物質の豊かさと精神の豊かさは別物で、貧しいながらもくるくると働き、四季折々のご馳走や仕込みをした世界。夢のような、幻のような世界がそこにあって、胸がきゅっとなる。

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2023/02/23

美しい水俣の自然、人間模様、村の様子を、4歳のみっちん目線で描かれた、おはなし。 この時代のことも、この土地のことも、ここの言語のことも知らないけれど、その情景が目に浮かぶような、描写だった。

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2022/12/31

失われた時を求めて、遥かな鎮魂の詩である。水俣病前の風土というもの。生活というもの。自然といったいの、アミニズムの世界。 子供もまた客人として、自伝的に楽園を描く。やがて来る破壊と悲劇の前の神話の世界。このころ、家々の暮らしの中身が、大自然の摂理とともにある。 中上健次のあとに読...

失われた時を求めて、遥かな鎮魂の詩である。水俣病前の風土というもの。生活というもの。自然といったいの、アミニズムの世界。 子供もまた客人として、自伝的に楽園を描く。やがて来る破壊と悲劇の前の神話の世界。このころ、家々の暮らしの中身が、大自然の摂理とともにある。 中上健次のあとに読むと、中上健次は土と魂。石牟礼道子は花と詩。によって象徴できると感じた。

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2022/07/14

水俣病の歴史を知っている。しかし、その時代の前後した熊本に生きる人々の生き生きとした生活を4歳から5歳であろうみっちゃんの目からみたままを描写する。  その後に起こる水俣の悲しい歴史を想像して、豊かな自然に暮らす人々が公害により自然と奪われ変わっていく様と相まって、えも言われない...

水俣病の歴史を知っている。しかし、その時代の前後した熊本に生きる人々の生き生きとした生活を4歳から5歳であろうみっちゃんの目からみたままを描写する。  その後に起こる水俣の悲しい歴史を想像して、豊かな自然に暮らす人々が公害により自然と奪われ変わっていく様と相まって、えも言われない気持ちになる。決してチッソを憎む気持ちが根底に垣間見えるわけではない。ただ淡々と描写する。日本は自然豊かな、地方地方の独自の文化を持つ国だったのだなという気持ち、現代の波にのまれ変わってしまった今、もう二度あの頃の日本は戻ってこないだなという気持ちがわいてくる。  ゆったりとした時間のなかでも一度読み直したい本

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2022/05/19
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

「苦海浄土――わが水俣病」は、ルポルタージュとも小説とも言い切れない、「凄い文章」と呼ぶしかない、異様な散文だった。 それに対する本書は、いわば「苦海浄土」エピソード・ゼロ。 著者が1927年生まれなので、作中のみっちんがおおむね4歳ということは、1930年前後の水俣が舞台なのだろう。 しかし4歳児がここまで精緻に記憶していたかは怪しい。 そして彼女を取り巻いていた大人の事情をここまで把握していたはずはない。 単行本は1976年刊行。 50歳近い著者が、45年前の自分自身や、今は亡き家族親族知り合い、どころか村自体を憑依させて、書いた。 (その村は、人が自然死するよりも理不尽に、決定的に損なわれた……「水銀漬け」「生き埋め」) 「もはや語れぬ者」の言葉を「語れる自分」を媒介にして代弁しているのだ。 それを2022年現在、約50年前の言葉でもって、90年ほど昔の村を追体験させてくれる、これもまたやはり異様な散文。 てなことを理屈っぽく書いてしまったが、語り口がマイルドで、読んでいて深呼吸できるような気持ちになった。 字の文の擬音語擬態語多用もそうだが、やはり方言による会話。 「おもかさま、気分はどげんでござりまっしゅ」 「あい、あい」 とか、 「ここばずっとゆけば、湯ノ児にゆかるっと?」 「ゆかるっと」 「ゆこい、湯ノ児に」 とか、パッと開いたところを引用してみただけだが、いいなー。抒情。 現在5歳児と暮らして幼児のごっこ遊びを間近に見ているというのもあるのかもしれない、おもかさまとの遣り取りは胸を突く。 が、ここに描かれた「とんとん村」が古き良きユートピア! パラダイス! なんてことは一切ない、峻厳な視点があることは、書き漏らせない。 そもそもその呼び名自体が差別意識を含んでいるし、差し挟まれる人々の言葉には、モロに差別意識や近代化についていけない、怒りや虚しさが滲む。 チッソの件はチッソが悪いと限定し糾弾して済む問題ではなく、日本の近代化の、もっとマクロに見るなら都市化やグローバル化のひずみが顕在化しただけ、なのだ。 都市生活者が自分を見失う、という文学の題材(うーん深く考えずに挙げるなら安部公房とか、村上春樹とか?)とは異なるベクトル、(おそらく実生活者にとっては何でもない)一地方を取り上げて、磨き上げて作品に仕立て上げる、文芸……大江健三郎とか中上健次とかジェイムズ・ジョイスとかウィリアム・フォークナーとかガルシア=マルケスとか。 自分で発見したような気がしていたが、池澤夏樹が世界文学全集を編んだときも似たことを言っていたかもしれない。 だから都市こそ文学という丸谷才一の文学全集構想とは、自分の全集は自ずと異なるんですよ、と言っていたのを、どこかで読んだ。 ともあれ中上健次に熱中していた十代には知らなかった石牟礼道子を、中上健次再読に先駆けて教えてくれた池澤夏樹には感謝しきり。 中上が書いたオリュウノオバやレイジョさんが、熊野だけでなく水俣にもいたのだ、と。 この発想は路地をブエノスアイレスなどに拡張した後期中上のもので、読者としては過去・現在・未来に渡って根拠地を想う方法。 その一例が石牟礼道子という作家。 人とは。村とは。都市とは。共同体とは。国とは。近代化とは。交換とは。生死とは。 ゆっくり読んでいきたい。 ■第一章 岬 ■第二章 岩どんの堤燈 ■第三章 往還道 ■第四章 十六女郎 ■第五章 紐とき寒行 ■第六章 うつつ草紙  ■第七章 大廻(うまわ)りの塘(とも)  ■第八章 雪河原 ■第九章 出水 ■第十章 椿 ■第十一章 外ノ崎浦 ◆あとがき(初版) ◆河出文庫版あとがき ◆解説 池澤夏樹

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2022/05/16

本を開いて一行目でもう、匂いや風まで感じられるように浮かぶ、行ったことも見たこともない昭和初期、熊本県水俣の、部落の生々しい風景。 4歳から5歳くらいの頃の著者の「目」を通した世界を、大人になった著者が書いているのだが、あとがきで池澤夏樹氏が言うように、エッセイや回想録というに...

本を開いて一行目でもう、匂いや風まで感じられるように浮かぶ、行ったことも見たこともない昭和初期、熊本県水俣の、部落の生々しい風景。 4歳から5歳くらいの頃の著者の「目」を通した世界を、大人になった著者が書いているのだが、あとがきで池澤夏樹氏が言うように、エッセイや回想録というにはあまりにも深淵な世界が描かれている。 幼い日に抱いたなんともいえない寂しさとか恐怖心とか、本来ならば言葉には到底おこせない「心の中にむらがりおこって流れ出る想念」を、言葉にすることに不完全さを感じながらも極限まで尖らせ、尚且つ生身の血の脈打つのを感じる言葉をもって、「送り出してしまうことに」なっている。 片足は象皮病で肥大した、裸足の、盲目の、村の皆から「神経どん」(つまり精神病)と呼ばれ、石つぶてを受けることもある祖母、「おもかさま」と、ある日は甘く、ある日は悲しく、またある日は靉靆として、まだ人の手のあまり入らない部落の村をその自然と同じ目線で見ていく。 赤ちゃんが完全な存在でこの世に生まれてから、人間というものになっていく過程で、根源の深い世界から離れ落ちていく、みずから手離していく感覚を追体験しているよう。 特に、第九章「出水」が個人的にはかなり、頭を岩で殴られたような気持ちになった。 出だしは、「五月の暗鬱は、麦の熟れ色に宿ってやって来る」 柿山の婆さま、と呼ばれる片目の潰れた働き者のおばあさん。山のことや猿のことを、みちこに優しく教えてくれるその婆さまが、突然に柿山で首をくくってしまう。気持ちはまた書き出しに引っ張られていく、また重ねて読む。 「わたしにはなにかが納得され出していた。それは確実な不幸感と云ってもよかった。この世の正相と変相が、同時にみえはじめたと云ってもよかった」 前半の章では、おもかさまの髪を女郎のように結いながら、髪につけたペンペン草の揺れる音に、この世の無常と有情とをつくったりほぐしたりするあそびをあそぶ幼女だったみちこ。そこから後、 「なにか濃密な、バランスをたもちきれぬ生命界の変相が見えてこようとしていた」みちこは、水の溢れた田んぼへ入っていく。 そういう鋭敏な目をもった人が見てしまう心の在り様のなんたる残酷さと美しさなんだろうか。 確かにまだ全部手離す前に、「現世へはもう帰りたくなかった」と思うのかもしれないと感じた。 選び取られる言葉も、色々と好きだった。 三千世界 徒然なか(方言の響きがとても良い) 弱いものたち向きに捨象された世の中(安らかに生きていくために草や土と等しいものになる、そればかりでは決してないはずだけど) 子どものふりをして、胸の中の悲哀を深くして、見聞きした様々のことは、全編を通してこの「弱いものたち」のことだった。 これはあの水俣病以前の、壮大な魂の世界だ。 子を産んでから、子というものの完全さに感嘆することが多いが、なんでみんなそれを手離してしまうんだろうな、そうでなければ生きていけないのかなこの三千世界では、と、少し泣いた。

Posted byブクログ