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誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験 の商品レビュー

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2018/10/18

生き生きした面白さのある堅い本。 新しいトライアルの記録。著者の冷静な視点がすごい。 ┌手段的価値群(将来中心・効率志向・仕事志向) └即自的価値軍(現在中心・情緒志向・私生活志向)・・・新中間大衆 批判性を持つ(抵抗への同情や共感)※革命への共感ではない ”ものをよく考える...

生き生きした面白さのある堅い本。 新しいトライアルの記録。著者の冷静な視点がすごい。 ┌手段的価値群(将来中心・効率志向・仕事志向) └即自的価値軍(現在中心・情緒志向・私生活志向)・・・新中間大衆 批判性を持つ(抵抗への同情や共感)※革命への共感ではない ”ものをよく考える”というのは、問題を抱え込み、反芻し、忘れ、また思い出し、といった、問題になじみ繰り返して考えるような経験を必要としているのではないか。−不意に思わぬ場面で思い出し、ああそうだったのかと思う 「エバリュエーター」評価者

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2018/06/24

筆者が会議を成功させようと奮闘する姿がよく伝わってくる。何が起きたかという事実だけでなく、会議実施にかかわる人々の不安や喜びなどの心情まで記述されており、ノンフィクション小説的な面白さが含まれていた。肝心のコンセンサス会議という試みも興味深く、専門家ではない市民が社会の科学技術に...

筆者が会議を成功させようと奮闘する姿がよく伝わってくる。何が起きたかという事実だけでなく、会議実施にかかわる人々の不安や喜びなどの心情まで記述されており、ノンフィクション小説的な面白さが含まれていた。肝心のコンセンサス会議という試みも興味深く、専門家ではない市民が社会の科学技術に負うべき責任を考えさせられた。

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2018/05/27

ちょっとボリュームあるけど読んで損のない本。サイエンスカフェなどと違って普通に参加する機会がすごく少ないので、イメージが湧きにくいから。

Posted byブクログ

2012/06/09

確認先:稲城市立iプラザ図書館 2000年に行われた農林水産省の遺伝子組み換え食品に関してのワークショップを覚えている人はいるだろうか。本書はそのワークショップにおいてファシリテーターを勤めた人物による「科学技術と社会の関係を再考する試み」についての実用書である。実用書というに...

確認先:稲城市立iプラザ図書館 2000年に行われた農林水産省の遺伝子組み換え食品に関してのワークショップを覚えている人はいるだろうか。本書はそのワークショップにおいてファシリテーターを勤めた人物による「科学技術と社会の関係を再考する試み」についての実用書である。実用書というにはレベルが高すぎると思われるだろうが、学術書というには若干語弊があるのと、小林が伝えたい対象は学術研究者ではなく「ズブの素人」であり、この方がいいのかもしれない。 ここで小林が対象としているのは、コンサンセス会議と呼ばれる科学技術についての相互不信をあえて付き合わせることで見えてくるものについての検討会議と言うべきものであり、こうしたことを通じて科学技術という存在とその概念を思索するのは「特定の誰か」ではないということをいかに理解するかという理解訓練の営みである。ちょうどこれは上野千鶴子が『和解のために』の解説で記した「複雑なことを複雑なまま理解する」こととは並行関係に位置しているようなものである(その上野自身、「科学技術」と社会と生命倫理の複雑かつ錯綜した関係をそのまま理解しているとは言い難いのだが、これを批判する資格は評者含め誰にも存在しない)。 本書で示してある事例はあくまでも医療倫理や遺伝子組み換え技術の食品への応用(の際に置き去りになったものは何か)ということについての技術的なことへの対応であり、科学技術論や科学技術社会論ではおなじみの光景でもある。しかし、「だったら科学技術と社会・生命の根幹に関わる問題でもできるでしょ」というきわめて安直なしかし出さずにはいられないであろう疑問を持つ人もいるかもしれない。福島原発の事故・事件についての落とし前を求める人(≠糾弾)からは確実に上がるであろうこの疑問、もちろんそのような応用は可能といえば可能である。ただその応用を行うにはまだ時期尚早であることを自覚しておいたほうがいいだろう。というのも、その応用は同時にコンサンセス会議というスタイルを決定的なまでに引き裂く危険もはらんでいるからだ。 結果を政策決定に流用することを厳に慎むという小林のスタイルを着目するとその危険が良くわかると思う。つまり、専門家あるいは市民を自陣営に引き込むために存在するのではない、という当たり前のモラルが置き去りになると言うことでもあるのだ(この当たり前の置き去り、みちのく震災以降さまざまな事例で見て取ることが極端なまでに増えたことは記憶に新しい)。本書でもそうした引き込み行為への警戒が全てのステークホルダーに共有された上で議論が行われたことを読み落としてはいけないだろう(この部分は全体的な論調に通底しているので読み落としはない、と考えるが)。ここには参加する市民がそもそもバイアスのかかった人々であり(よほどの物好きということか)、もしそこに重要な決定への幇助を含めた場合どういうことになるか明白だからだ。 コンサンセス会議という実験は実のところ今現在この国民国家で行うにはさまざまな訓練が必要であると評者は痛感する。言い換えれば10年前できたことが現在できないということになる(うざがられるとも)。コンサンセスは「○か×か」あるいは「敵か味方か」という単純な二項対立、あるいはいまなファナスティックな概念に変容してしまった「決断」とは対極関係にある。その対極関係からの脱却なくしてコンサンセスの復権は困難になりつつある。科学技術論などが絶望するこの苦悩はまだまだ続くのだろうか。

Posted byブクログ