1,800円以上の注文で送料無料

シベリア抑留 の商品レビュー

3.9

19件のお客様レビュー

  1. 5つ

    6

  2. 4つ

    4

  3. 3つ

    7

  4. 2つ

    0

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2025/10/01

アジア•太平洋戦争末期、日本は和平工作をソ連に持ち掛け失敗した。既にヤルタ会談の秘密協定で対日本参戦を決定していたソ連に対する日本の要望が通るはずもない。ソ連側からすれば、死に体の日本からユーラシア大陸満洲の権益を奪い、あわよくば北海道までをも支配下に収めるチャンスをみすみす逃す...

アジア•太平洋戦争末期、日本は和平工作をソ連に持ち掛け失敗した。既にヤルタ会談の秘密協定で対日本参戦を決定していたソ連に対する日本の要望が通るはずもない。ソ連側からすれば、死に体の日本からユーラシア大陸満洲の権益を奪い、あわよくば北海道までをも支配下に収めるチャンスをみすみす逃すはずもない。何より日露戦争の積年の恨みを晴らすにはもってこいの機会だ。太平洋戦争では最後の最後まで楽観的かつ希望的観測が支配し続けた日本の悪習はここでも見事に粉砕される。対独戦が終結し、兵力を東方に向けるには時間を要したが、ギリギリのタイミングで満洲に雪崩れ込んだソ連の兵力は150万、対する日本は関東軍70万。但しまともな武器を持った兵士は30%程度と言われており、兵員数だけでなく明らかに実力も全く及ばない状態にあった。なお現地召集された人員については、出刃包丁(棒の先につけて槍にする)と火炎瓶として使うためのビール瓶の持参を強要するなど、近代戦の軍隊とかけ離れた戦国時代を想起させる状態である。最早軍隊の体を成していない。その様な中で更に日本軍は朝鮮半島を死守するため、150万人いたとされる現地住民を置き去りに関東軍は南下する。本書はその様な実質敗走状態にある日本軍が、ポツダム宣言受諾以外の選択肢なく、現地で捕虜となったのち、シベリア抑留と呼ばれる強制労働に従事させられる所から始まる。なおシベリア抑留は一般的な呼び方ではあるが、実際は南はウズベキスタンやタジキスタン、西はモスクワまで、シベリアのみならずユーラシア大陸全般に収容所があったことから、ユーラシア抑留という言葉も用いている。 では、実際の捕虜生活とは如何なるものであったか。これについては、以前新宿住友ビルにある平和祈念展示資料館(帰還者たちの記憶ミュージアム)を訪れてみた抑留者の悲惨な捕虜生活や労働の実態などの映像と違わず、現代を生きる我々からは想像もつかない地獄の様相である。食料は充分に与えられず、不衛生であることは勿論、事故や病気(飢えなど)で亡くなっても穴を掘って放り込むだけの世界。逃亡の疑いがあれば容赦無く銃殺される。こうした実態はソ連側から見れば、戦勝国として敗戦国の捕虜を動員して、未開のシベリアなどを開拓させる行為自体が当たり前とされるものである。捕虜は労働力としてモノ扱いと変わらず、ましてや東洋人ははなから別の見た目の民族で人権などの意識も薄いであろうことが窺える。そして捕虜に対する社会主義の思想教育も徹底する。同じ捕虜同士でもソ連の思想に従うものとそうでないものを徹底して分けて扱い、待遇面でも差別化することで、赤化を進めようとする。その様な中で同じ日本人同士に対立が生まれていく。 本書はそうしたソ連側の捕虜の扱いについて、帰還者からの言葉も用いて生々しい現実を説明する。当時の悲惨な状況を伝えて実態を明らかにしつつ、メインの内容としては、シベリア抑留から帰国(ダモイ)を果たした帰還者への戦後補償に関するものだと言える。多くの抑留者が亡くなる中、なんとか生き延び帰ってきた人々にも苦難の道が待っている。アカと称され就職も思う様にできない人々。同僚や友人達が次々と亡くなる抑留生活を経て心に深い傷を負ったまま社会復帰が困難な人。そして寒さと飢えで病気を患ったり手足の一部を凍傷で失い通常の生活ができない人。シベリア抑留は帰国後も長く生活苦や心の傷など癒えない傷害を多くの人々に植え付けた。そして帰還者に対する国の態度も厳しさが更に追い打ちをかける。本書後半は近年に至っても補償面で解決が見えない政府に対する、抑留者及びその遺族達の戦いの物語となる。 シベリア抑留から戦後補償に対する問題提起と内容は盛り沢山であるが、これがかつて太平洋そしてアジア、ユーラシア大陸で繰り広げられた戦争の悲劇の一部でしかない。平和な世の中、今を生きる我々日本人が忘れてはならない記憶の一つとして、未来の日本にも語り継がなければならない記憶として、先ずは知ることから始めたい。そして平和を守り続ける大切さを改めて感じ取ってほしい。

Posted byブクログ

2025/01/03

シベリア抑留の発端から始まり、その壮絶さが語られる。 民主運動で日本人同士で疑心暗鬼になり、傷つけ合うのは痛ましい。帰国してからも… 著者は新聞記者で、本書も新聞の連載を基にしていることもあって、特に後半は新聞のコラム的な内容だった。国との訴訟的な。 もう少し前半部分を分厚く知...

シベリア抑留の発端から始まり、その壮絶さが語られる。 民主運動で日本人同士で疑心暗鬼になり、傷つけ合うのは痛ましい。帰国してからも… 著者は新聞記者で、本書も新聞の連載を基にしていることもあって、特に後半は新聞のコラム的な内容だった。国との訴訟的な。 もう少し前半部分を分厚く知りたかった。

Posted byブクログ

2020/08/09

祖父(2008年死去)がシベリア抑留経験者です。多くを語らなかった祖父の壮絶な人生の一部を少しでも知りたいと思って読みました。 終戦後の日ソ交渉やソ連による抑留計画など、手記の類では語られない歴史的事実に大変驚かされました。また、生きて帰国した抑留者が祖国日本にその後も苦しめられ...

祖父(2008年死去)がシベリア抑留経験者です。多くを語らなかった祖父の壮絶な人生の一部を少しでも知りたいと思って読みました。 終戦後の日ソ交渉やソ連による抑留計画など、手記の類では語られない歴史的事実に大変驚かされました。また、生きて帰国した抑留者が祖国日本にその後も苦しめられる姿に心を痛めました。祖父はどんな思いで帰国後の人生を過ごしたのか…、今となっては確かめる術などありませんが、その亡き祖父と「対話」するように、この戦後75年の今年を過ごしていこうと思っています。

Posted byブクログ

2019/11/05

太平洋戦争終了後、捕虜としてソ連に抑留され、労働力として、資本主義に対抗するトロイの木馬として、過酷な環境下に置かれた人々の話。 関東軍、満州入植後の住民がソ連の至る場所にある収容所で労働に従事させられた。 実態はげき弱だが、関東軍は最強との適当な宣伝を鵜呑みにし、逃げ遅れた...

太平洋戦争終了後、捕虜としてソ連に抑留され、労働力として、資本主義に対抗するトロイの木馬として、過酷な環境下に置かれた人々の話。 関東軍、満州入植後の住民がソ連の至る場所にある収容所で労働に従事させられた。 実態はげき弱だが、関東軍は最強との適当な宣伝を鵜呑みにし、逃げ遅れた多くの民間人が捕虜になったこと、敗戦後、民間人を残して多くの軍人が引き上げていったこと書かれていた。 マイナス50度で、食べるものもろくにない環境で仲間がバタバタと倒れた。高いノルマで、とんでもない重労働。 反乱分子の積極的な密告を募ったソ連。反乱分子とみなされてリンチされて死んだ捕虜も。同胞の人間でさえ信頼できない最悪の環境だった。 そして引き上げた後も苦難は続く。 捕虜の取り扱いを決めた国際法に違反しまくったソ連には、戦後請求権の破棄をさだめた日ソの同盟を理由に未払い賃金を請求できない。 日本政府は南方の捕虜には補償をしたが、シベリア捕虜には補償をしなかった。 また後の資料から、捕虜を労働力として差し出すことで戦後の天皇制維持を画策したお偉いさんの文書も見つかった。 そんな中、かつての引揚者は高齢化し、なくなる人も絶えない。集団として語られることが多いが、抑留で亡くなった人も含めて全員がかけがえのない尊い命。 ずさんな扱いを受けた過去や、日本政府の対応など、このまま時間の経過とともに闇に葬られていいわけがない。 「窮地に立たされた時に人間の本質が明らかになる」と著者。それをどこまでも明らかにし、捕虜を見捨てようとした国家、補償をしない現在の日本国のあり方が浮かび上がった。

Posted byブクログ

2018/11/05

抑留者数 日本政府推計 575,000人(うち民間人39,000人)、死者55,000人。 別に病気などで満洲や北朝鮮に送り返されたもの47,000人、そのうち23,000人が死亡。 計78,000人が満洲での抑留関係死亡者。 ほとんどの者が「ダモイ(帰国)」とだまされてシベリ...

抑留者数 日本政府推計 575,000人(うち民間人39,000人)、死者55,000人。 別に病気などで満洲や北朝鮮に送り返されたもの47,000人、そのうち23,000人が死亡。 計78,000人が満洲での抑留関係死亡者。 ほとんどの者が「ダモイ(帰国)」とだまされてシベリアへ連行される。ジャリコーヴァでの関東軍とソ連軍の密約説があるが著者は否定的。圧倒的に立場の強いソ連側に密約を結ぶ必要がないからだ。また労働力不足のソ連は、捕虜を働かせる計画を明らかに持っていたとされる。しかし、日本側は後に朝枝参謀の「実視報告」などであきらかになったように、捕虜や居留民による役務提供や、満洲への置き去りを容認しており、後の法廷闘争にもつながる。 死者は45−46年に集中。飢え、寒さ、重労働の三重苦に加え、民主化運動などの内輪揉めがあった。吊るし上げは連合赤軍を連想させる。ドイツ軍捕虜は日本軍捕虜に比べ毅然としていたとか。 最初の引き揚げは1946年12月8日舞鶴入港の「大久丸」「恵山丸」。祖父はほぼ第一陣で帰国できたのだろう。当初はシベリア抑留の過酷な様子は、プレスコードもあって国民につたわらなかった。赤化された引揚者もいた。マジメな人ほどソ連への協力を生き延びるための方便と割り切れずに(割り切った人も多かったみたいだが)、自己正当化したのではないか。日本軍の体質や、卑怯な上官への反発があった人も多かったであろう。進歩派知識人の時代でもあった。「戦犯」としてハバロフスクに抑留されていた1,025人が帰国できたのが1956年12月26日。 しかし、北朝鮮の拉致被害者と比べて、シベリア抑留者について世論は盛り上がらない。時間の経過か、やはり当時の関東軍参謀と同じく、やむをえない犠牲と捉えてしまいがちなのか。 二十一世紀になっても遺骨調査や法廷闘争が続く。本当の解決・決着というものはないように見える。合掌。

Posted byブクログ

2021/02/06

1941年7月2日御前会議 情勢の推移に伴う帝国国策要綱 状況に応じてソ連と戦う 司馬遼太郎 学徒動員で関東軍に→本土防衛のために帰国 ジャリコーヴァ密約 マリノフスキーの脳裏には、日本によるかつてのシベリア出兵があったことは間違いないだろう。…ソ連にとってもっとも苦しい時期...

1941年7月2日御前会議 情勢の推移に伴う帝国国策要綱 状況に応じてソ連と戦う 司馬遼太郎 学徒動員で関東軍に→本土防衛のために帰国 ジャリコーヴァ密約 マリノフスキーの脳裏には、日本によるかつてのシベリア出兵があったことは間違いないだろう。…ソ連にとってもっとも苦しい時期に干渉戦争を挑んだ日本への恨みは、深く残っていた。 日本側が兵士を労働力として差し出す? 捕虜→恥 行政文書でも抑留者 飢えが精神を破壊 馬糞の中の麦 第二シベリア鉄道と言われるバム鉄道の建設 スターリンへの感謝署名 署名しなければ帰国できないと信じ込まされていた抑留者 日本人同士の密告 帰国 前期1946年から1950年 後期1953年から56年 ソ連が連合国側であったため実態は伝わらず・プレスコード 引き上げ船内部の異様な雰囲気 アクチブ吊し上げ 赤い帰還者 1956年10月 日ソ共同宣言 人質外交 政治学者・岡本清一 帰国者はロシアの事情を知るはずもない。…平和がどうの、再軍備がどうのと言わせてみたところで何にもならないのである。 斎藤六郎 全国抑留者補償協議会 1981年提訴 池田幸一 蟷螂の斧(とうろう) カマキリの会 抑留者3団体の対立 与党側、野党と協力したもの 米英では捕虜は勇敢な戦士 ミズーリでの調印式に捕虜を招待 万年筆を与え、その労をねぎらった。 日本政府 補償、謝罪はしない。しかし慰めはする。 自然災害に遭った人への態度 モスクワに政治犯の犠牲者の墓苑 宇山禄郎 「もっと話を聞いておくべきだった」そう後悔する遺族は多い。 1991年 シベリアで遺骨収集開始 バム鉄道 枕木1本につき日本人1人 余りにも無関心、見捨てられた、薄情だ→日本政府に対する気持ち アンケート 窮地に立たされた時にどう振る舞うかによって、その人間の本質が現われる。国家も同じだろう。

Posted byブクログ

2018/03/07

シビアな内容ながらすいすい読めるやさしい新書。 シベリア抑留関連書籍の入門編という印象。 うちの曾祖父もシベリア抑留経験者。 直接話を聞く機会を持てないままに曾祖父が亡くなってしまったので、こういうたぐいの本から知識を集めていくしかないわけで。 とはいえ、読もうと思った一番の動...

シビアな内容ながらすいすい読めるやさしい新書。 シベリア抑留関連書籍の入門編という印象。 うちの曾祖父もシベリア抑留経験者。 直接話を聞く機会を持てないままに曾祖父が亡くなってしまったので、こういうたぐいの本から知識を集めていくしかないわけで。 とはいえ、読もうと思った一番の動機は、“MGSのリキッドが好きで、元工作員や捕虜体験記をぽつぽつ読んでいるからその一環として”。 シベリア抑留者の家族としても、液蛇好きとしても、たいへん興味深くたいへん勉強になる本でした。

Posted byブクログ

2017/04/26

満州引き揚げあたりから丁寧に追ってくれると思いきや、抑留の話はあまり掘り下げてなかった印象?!山崎豊子の不毛地帯の方が何倍も壮絶さが伝わった。

Posted byブクログ

2017/01/21
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

2009年刊。著者は毎日新聞記者。◆第二次大戦末、満州侵攻ソ連軍の捕虜となった日本兵と民間人。彼らの戦後の来し方を生々しく描く。◆まず、帰還者による国への責任追及・補償制度の制定は、現代も未解決問題である点を重く見たい。加え、ソ連の問題性はもとより、①そもそもかかる抑留を関東軍高官が許容し、それをソ連側に伝えた可能性がある点、②日本軍の階級が収容所でも維持され、結果、食事・労働等、下級兵士に多大な皺寄せとなった点、③所謂「民主化運動」、④帰還者を「アカ」と看做す根拠なき差別等多様な知見に彩られる。

Posted byブクログ

2016/01/11

著者は、戦争体験者や遺族への取材に基づいた戦争関連の記事、著作を多く持つ毎日新聞記者。 本書は、2008年の毎日新聞(大阪)の連載をもとに、新たな構成で書き下ろされたものであるが、著者は本書執筆の目的を、戦争のような国家としての窮地に立たされたときに、日本国家は国民に対して何をし...

著者は、戦争体験者や遺族への取材に基づいた戦争関連の記事、著作を多く持つ毎日新聞記者。 本書は、2008年の毎日新聞(大阪)の連載をもとに、新たな構成で書き下ろされたものであるが、著者は本書執筆の目的を、戦争のような国家としての窮地に立たされたときに、日本国家は国民に対して何をし、何をしなかったのかを辿ることであるといい、そのために本書の半分近くが、抑留が終わった後の時代を追ったものとなっていると語る。 本書の内容を大きくまとめると以下である。 ◆終戦後、ソ連によって強制抑留された日本人は、日本政府の推計によるとおよそ57万5千人。中には民間人3万9千人も含まれる。死者は5万5千人。但し、この数値はあくまでも推定で、日ロ両国の研究者・機関が示すものとして下限に近いという。抑留者の多くは、ソ連も参加したポツダム宣言の条項に反する、明白な国際法違反によって抑留された。 ◆抑留者は飢え、極寒、重労働という三重苦を受け、多くの命が奪われた。 ◆更に、理不尽な旧軍秩序への反発を引き金に始まり、ソ連側がソ連式共産主義・民主主義を植え付ける思想教育に利用した「民主化運動」は、日本人が日本人をリンチする吊し上げや、「アクチブ」と呼ばれた運動のメンバーと反対派が帰国後までいがみあう悲劇につながった。 ◆1946年に始まった抑留者の引き揚げは、ソ連が貴重な労働力が減ることを拒んだこと、冷戦構造が明確になりつつある中で駆け引きの道具に使われたことから、協定通りには進まずに50年に中断。日本政府は「人質」を取り返すために、北方領土四島の不法占拠を許したままで国交回復を図らねばならなかったが、53年に大半の抑留者の帰還が実現した。 ◆帰還者の中には「赤い帰還者」も一部にいたが、その影響で「シベリア帰りはアカ」とあからさまな差別を受ける帰還者は少なくなかった。 ◆戦争に関する賠償請求権をお互いに放棄した日ソ共同宣言の締結により、補償をソ連に求められなくなった帰還者と遺族は、日本政府に補償を求めているが、政府は南方で米軍等の捕虜となった日本人に対して支払った強制労働の労賃を、シベリア抑留者には支払っていない。 ◆敗戦直後の日本政府・陸軍首脳の間には、「国体が護持されるなら日本人を労働力として差し出してもいい」、「満州の日本人の処遇はソ連に任せる」との方針があったことが、複数の文書から明らかになっている。 そして最後に、ある帰還者の「生還した戦友に「シベリアでは何をしてた?」と聞くと、食料係とか医務室とか通訳などですよ。うまく立ち回って、重労働を逃れた。誰かが代りにその仕事をさせられたんです。・・・我々生き残った者はね、加害者なんですよ」という言葉を紹介しているが、これは、フランクルが自らのアウシュビッツでの体験を綴った『夜と霧』の「いい人は帰ってこなかった」という呟きと同じもので、収容所での体験を持つすべての人々に残る最も苦しいトラウマなのではあるまいか。 戦争の生んだ一つの悲劇として、語り継がれなければならないものである。 (2010年8月了)

Posted byブクログ