太陽を曳く馬(下) の商品レビュー
この時代に、これほど長大な思弁小説をあえて書く高村薫は、日本の小説家の中で最も勇気あるひとりかもしれない。それも、自身が生み出した警察小説のヒーロー、合田雄一郎を、謎を解き明かし世界に秩序をとりもどす主体ではなく、世界の不確実さに立ちすくみ、生き惑う者として投げ出すことまでしてみ...
この時代に、これほど長大な思弁小説をあえて書く高村薫は、日本の小説家の中で最も勇気あるひとりかもしれない。それも、自身が生み出した警察小説のヒーロー、合田雄一郎を、謎を解き明かし世界に秩序をとりもどす主体ではなく、世界の不確実さに立ちすくみ、生き惑う者として投げ出すことまでしてみせるのだから。 『晴子情歌』『新リア王』に続く本作では、一見、小説としてより馴染み深い形式をとって、修行僧の死をめぐるミステリーを提出してみせる。しかし、オウム真理教事件から9.11直後までの時間を背景に、このようにある世界を見、行為する私とは何か、その意思の自由と責任とは――という問題をめぐる果てしのない問答の末に読者が合田とともに見出すものは、そうした問いに対して延々と言葉をもてあそぶ、いやそんな手間さえかけずに処理してしまうニヒリズムに、既成宗教ですら深く浸されている時代である。その中にあって、今は僧からひとりの人間に戻ろうとしている福澤彰之はこのように言う。 「解くことができない限りにおいて、どんなふうにでも開かれうる可能性を孕んで、なにがしかのかたちが生まれてゆく動力そのものであるかのような問いです。解くものではなく、問いであることが唯一、私が生きていることの証であるような問いです。・・・問いを立てる個体としての私は・・・世界を把握し続ける動因として、世界に向けて未決定に開かれた個体として有る、と」。 自我の大海の中で問うことだけを頼りに泳ぎ続けるその姿はなんと孤独なことだろうか。それは、主流の「小説」概念に対する反小説のようなこの作品を提出してみせた作家の姿にも重なるのである。
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『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤サーガの完結編ということだが、この2冊は未読。 合田雄一郎が登場するので手に取ったのだが・・・。 読み進むのに苦労した。 前半は現代美術、後半は仏教と見慣れぬ言葉の羅列を追うのに必死で何も頭に入らない。 そして物語の結末はというと、不明なまま。...
『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤サーガの完結編ということだが、この2冊は未読。 合田雄一郎が登場するので手に取ったのだが・・・。 読み進むのに苦労した。 前半は現代美術、後半は仏教と見慣れぬ言葉の羅列を追うのに必死で何も頭に入らない。 そして物語の結末はというと、不明なまま。 上下巻800頁近い物語の果てがこれではちょっと・・・。 合田は捜査の現場に戻れるのだろうか。
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上下巻併せての感想。 福澤家サーガ前2作を挫折した過去アリ…。 故に、合田刑事シリーズとして読み始めたので、意外に読み易かった。 ある2つの事件にかかわるのが、福澤家の人間なのだが、そこに関わる人物に、シンクロしてしまう合田刑事の切なさたるや否や。いままでの作品以上である。そして、読んでいる私も、合田刑事にシンクロしてしまい…。ああ、もう俗物的なあの検事の発言…。読んでいる私も打ちのめされてしまった。 現代絵画と仏教がキーワードにもなるが、詳しかったらもっと楽しめたかもしれないが、それ以上に、前半での秋道に対する周囲の反応、後半、作中での知識のやりとりに対する答えのようなもの等々、描き方が圧倒的で、夢中になって読み進めた程。一番は、福澤親子のやり取りなのだが(といっても、父からの一方的なものであるが)、彼の中で答えがでないからこそ、ああいった終わり方になったのだな、と感じた。 生きることは、「問う」、「問い続ける」ことなのだろう。 答えがないからこそ、問い続ける。それが生きること。 死に対する感覚は、個々だろうが、仏の道に問いを求めた彰之も、絵に問いを求めた秋道も、向かった方向は一緒なのだろう・・・。 そして。 これから合田雄一郎に、幸せや、平穏な心が訪れる日が来るのだろうか。 イチ合田ファンとして、いつの日か髙村薫が書いてくれることを信じたい。
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永劫寺で事故死した青年僧の死に不審な点はあるのか。彼が元オウム信者であり、てんかんの発作を持っていたことから、永劫寺では異質の存在となっていた。 合田雄一郎シリーズであって、そうでないような。「晴子情歌」「新リア王」のサーガ3部作シリーズらしいけど、いずれも途中で挫折したし。 内容は1/4もわかってないし、読み飛ばした部分も多々あるけれど、ともかく高村薫でしか描ききれなかったような圧倒的な筆致。哲学、宗教、神秘体験、信仰、それぞれに真正面から向かった力強さだけは印象に残る。 そして結局、彼は事故死だったかどうかはわからないまま。
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なぜ絵を描くのか? なぜ信じるのか? なぜ殺したのか? そして、その殺意の出所は? その問を投げかけ続ける合田が痛々しかった。 合田の「なぜ」という問いは、合田の言葉を通して私の苦しみとなる。 観念的な言葉、言葉の意味、有と無、それらが襲い掛かってくる。 合田は大丈夫だろうかと心...
なぜ絵を描くのか? なぜ信じるのか? なぜ殺したのか? そして、その殺意の出所は? その問を投げかけ続ける合田が痛々しかった。 合田の「なぜ」という問いは、合田の言葉を通して私の苦しみとなる。 観念的な言葉、言葉の意味、有と無、それらが襲い掛かってくる。 合田は大丈夫だろうかと心配になった。 とても硬質な世界かと思ったら、軟質に変化し、 笑ってしまう場面もあり、何が何だかわからなくなる。 彰之は、秋道と向き合う。 上巻では放浪する半身と向き合うかのように、 自分自身と向き合っているような気がした。 下巻で明かされる手紙、特に最後の手紙の場面がとても好きだ。 彰之の手紙は、絵のことばかりで、優しい人だと思った。 彼なりに真摯にひたすら理解しようともがいていると感じた。 哀しい、寂しい、そんな言葉が浮かぶ。 彰之は半身と対話しているのでなく、確かに父となっている。
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生きる意味とは何か。この本源的な問を問う意味があるのか。意味が意味をなさず、言葉が溢れ、価値が無価値となる中ひとはそれを心の奥底で自覚しながら、意味を求め彷徨する。
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難解でした。 宗教のことが分からないと途中で何度も引っ掛かると思います。事件を捜査する過程で合田の思考が引っ掛かる部分に、「何故合田はそう思うのか?」を理解しがたいがために宗教の教義を確認するという・・・ 私は「晴子情歌」は未読です。 読めばもっと感想が違うかもしれない。 ...
難解でした。 宗教のことが分からないと途中で何度も引っ掛かると思います。事件を捜査する過程で合田の思考が引っ掛かる部分に、「何故合田はそう思うのか?」を理解しがたいがために宗教の教義を確認するという・・・ 私は「晴子情歌」は未読です。 読めばもっと感想が違うかもしれない。 ミステリじゃないな、これ。マークスみたいな警察小説でもない。 でも人の内面といういものについて、人の内面に大きく作用する宗教と言うものの功罪について、考えさせられる良書だと思う。 (読むの苦労したけど・・・!) 合田はこんな繊細な心でこのまま警察組織にいられるのかが心配。
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高村薫、久々に読んだけれど、どこか、大江健三郎を読みたくなったのは何でだろう。にしても、長編。疲れたけれど、火がついたら、すんなりすんなり。オウム真理教に関してを絡めての絡めての。ロスコの画が表紙なのが、とても、いいです。(12/2/9)
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読み終わりました・・・ 宗教のことを掘り下げているのは正直凄いと思いましたがこれが刑事モノかは疑問が レディ・ジョーカーは面白かったのになぁ 上下巻で3週間もかかるとは苦行に近かった・・・
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前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。 そ...
前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。 そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。 リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。 そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。 本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。 メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。 でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。 僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。 夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。 合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか?
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